東日本大震災の復興の道のりは長い。

最近の新聞報道等を読みながら、改めてその認識を強めている。


「支援者もまた、被災者である」

とは、遠野まごころネットが当初から言っていたこと。


災害によって生活スタイルが変わってしまった人たちのことをさして

被災者と言うのであれば、なるほど、ボランティアもまた被災者なのかもしれない。


それを強く認識するようになったのは、震災から3年が過ぎようとしたころだった。


まず、支援者が被災地の現場を離れて、次のステージに登らないといけない…

それも、逃げるのではなく、関係のないところに向かうのでもなく

それぞれの姿勢の中で次のステージを見つけていくところから

支援者の復興が始まると思った。


私は、次の挑戦を始める。

場所を移して、その活動も綴っていきたい。



http://tabatoyo.exblog.jp/

910(火)

【人口流失の問題】



被災各地で、人口の流出が止まらない。そんなことは、新聞の記事を見るまでもなく、事ここに至るまでもなく、分っていたことだ。このままでは地域が成り立たなくなる…なるほど、でも本当に地域が成り立たなくなって困るのは誰なのだろうか?


2020年、東京での五輪開催が決定して実は私はほっとした。ボランティアによる大会運営に大きな期待がかかるオリンピック。ボランティアの核となるメンバーを、2016年のリオデジャネイロにインターンとして送るという。これで、多くのボランティアの目が東京オリンピックに向けられる。リオデジャネイロへのインターン、東京五輪での大会運営、ボランティアとしてこんな魅力的な活躍の機会はない。

東日本大震災の被災地へのボランティアへの関心は、これで激減するだろう。


私は、それでいいと思っている。被災者を元気にしたい。笑顔を届けたい。そういうイベントに、私はそれほど意味を感じていない。楽しみも、充実も、笑いも、もちろん涙も、自ら創りだすからこそ意味がある。自分たちで自分たちの街を作っていくからこそ、はじめて復興の難しさも、そして遅々としながらの復興の歩みも、そして街が、社会が創られていく喜びも享受できる。

オリンピック開催によるボランティアの関心の低下は、被災地に変化をもたらすに違いない。今でも日本全国的な視野で言えば、多くの場合、被災地のことなど関心の外なのだ。



 神戸と、東日本大震災の、復興の決定的な違いが一つある。もちろん、社会情勢や、経済情勢、地域性、災害規模・範囲、人口等々数えれば無数に違いがあるけれども、こと人間のできることに於いて比較する時に、この差は非常に大きい。

 つまりそれが【決める】という事だ。


 神戸の場合、わずか2カ月で復興計画が成立している事、これが非常に大きいと。もちろん、この復興計画通りに全てが進んだわけではない。けれどもまず【決める】ことをしなければ、どこにどういう影響があり、どういう問題が発生するか分らないのだ。問題があれば問題の個所を随時修正すればいいし、抜本的に変えたっていい。けれどもそれらは【決める】ことをされたことによって、初めて社会の隅々までが、【復興】を自分の問題として捉えたことによって起こる。

 特に神戸の場合、早々に復興計画を決められたことによって市民が怒ったことが非常に大きい。自分の街の姿を勝手に決められることに怒った市民が、奮起して自分の街の姿を考え初めた。街づくり協議会ができ、勉強会が開催され、コンサルタントが付き、市と協議しながら自分の街の姿を自分で描いていった。中央集権的に街づくりが考えられたのではなく、地方分権的にそれぞれの街がそれぞれの街を考えていけた。問題が難しく、複雑で、影響が大きく、個々に状況が違う場合には、中央集権的であるより現場分権的であることの方が、遥かに効率がいい。


 【決める】ということは、その決めたことに対して100%の完遂を求めるものではない。その決めたことに対して、どうシナリオを展開していくか個々に違っていい。けれども決めなければ、復興の姿が、市民個々にとって自分の問題にならないのだ。

 この【決める】ということが、東日本大震災の被災地ではとことんできなかった。

「復興を待っていられない」

今まで耐えて待ってきながら、その地に留まり続けた人たちが流失していくのは、復興がいまだ、彼ら自身が取り組む課題になっていないということを意味するのではないかと、記事を読みながら思うのです。

97日(土)

 【波打ち際の、砂の山】




 福島の農商工連携を模索するプロジェクトグループから、農商工連携プロジェクトの延期の相談の電話を、今日受けました。

 プロジェクトそのものは、引き続き進めてはいきます。けれども制度資金を当てにしたプロジェクトは、無期延期とこういうことになりました。



 私は、懸命な判断だと思っています。

 行政の絡む制度資金と言うのは、私は当人のためにならないと本気で思っています。これは精神論で言っているのではなく、制度そのものが、当人のために設計されていないからです。



 福島で言えば、もっともいい例が除染事業ではないでしょうか。除染事情で恩恵を受けるのは、除染された土地に住まう人々ではありません。国が一生懸命除染している地域は、現に人が住まない地域で、除染したからと言って人が住み始める地域ではないのです。そもそも、広大な地域の自然環境全てが汚染しているのですから、人の手でどうにかなるレベルを遥かに超えています。

 本気で人が住める地域にしようとしいているわけではないのに、盛大に除染事業をするのは、それが公共事業としての一定の役割をもっているから、と言えるのではないでしょうか。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、仕事を生み出すためだけに行っている。

 波打ち際で一生懸命砂の山をつくっているのと何らかわりません。それでも、砂の山を作っているだけで日当がもらえるなら、生活のために仕事をする人も居るでしょう。もちろん、その仕事によって利益を得ている人もいるわけです。

 けれども、どうせ波で崩れると分っている砂の山を、誰が真剣につくるでしょうか。



 除染の悪口を言っても仕方ありません。ただ単に、国の制度資金というのはそういう性格のものだ、ということの例として出しただけでした。



 さて、と言うことは、私を東北に留めていた理由が、またひとつ無くなったわけです。どのようにして、そこからの引き際を考えるか…という思案を、せずに済んだということです。


 これもまた、ひとつの巡り合わせなのではないかと、思わずには居られません。












96日(金)

【変化する怖さに目を瞑る】



 もう2020年前のことになるでしょうか…年末時代劇スペシャルみたいなものが、日本テレビ系列でありました。晦日あたりの2~3日の連続もので、白虎隊やら五稜郭やら、幕末もののドラマを放送していました。

 その時の【白虎隊】の主題歌で、堀内孝雄の【愛しき日々】という歌を、たまたまこの前耳にしました。

『もう少し時がゆるやかであったなら』

『きまじめすぎる』

『愛しき日々』

ところどころの歌詞が、どうにも福島の現状にマッチしているようで仕方がありませんでした。



悲しいほどに生真面目で、一生懸命に目の前の仕事に取り組む福島の職員。もっと時が、事態が、緩やかに流れているのなら、この生真面目な福島県人の性格は、どんな事態にも上手に対処していくのでしょうに。けれどもこの生真面目すぎる県民性が、事態の変化の早さにとまどい、目の前の仕事に一生懸命取り組むことで現実から逃げているようにも見えてしまうのです。

 


『努力や一生懸命を評価してはいけない。何をしようとしていたかは関係ない。政治は、結局何を為し得たか、なのだ』

と、言う言葉はどこにあった言葉だったか。忘れる事のできない言葉として私の頭の中に残っています。

 変化する怖さに目を瞑り、変化を恐れて旧態依然の中に安住する。努力していれば、一生懸命であれば、その旧態依然の結果として社会や事態が悪くなっても、その努力や一生懸命が免罪符になる…それではいけないのが【政治】というものなのではないかと思うのです。もちろん、変化を許容して、あるいは変化を積極的に起こして、その結果が悪くても責任を取らされる。栄誉は、結果を残すことでしか受けられない。

 


 この二年半で、ずいぶん政治家や行政マンの友が出来ました。できることなら、私も彼らの力になれる存在になりたいと思いながら、けれどもそれはまだ510年先の事だろうと思い、これからの何年かを出来る限り有意義に過ごしたいと思うのです。


9月5日

 【70%の未知の領域】



 一年ほどの前のことです。母校の高校で【キャリア教育セミナー】の講師を引き受けました。卒業生が20人ほど集まり、社会人としてのそれぞれの領域のことを在校生たちに向けて話すという年に一度の企画です。在校生たちは、20程あるセミナーのレジュメを見ながら、興味のある講義を二時間分聞くのです。

 高校ともなると同じ学年の人間であっても全員知っているわけではありません。ましてこのセミナーでは、上は還暦越えから下は20代まで、職業も様々な同窓生に会えて話ができるので、私自身も本当に勉強になったセミナーでした。



 このセミナーに来ていた同窓生に、教育関係の出版会社に勤めている人が居ました。彼女から聞いた話は、私には非常に興味深く記憶に残っているのです。

それはアメリカでの研究結果ですが、小学生に将来どんな仕事に就きたいかを尋ね、実際にはどんな職業に就いたかを追跡調査するという研究でした。その結果、70%の人間が、小学生の時には存在して居なかった職業に就いていたと言うのです。

小学生の時に夢に描いていた仕事に就けなかった人が70%と言うのではなく、存在すらしていなかった職業に就いていた…小学生から社会人になるまでに10数年、そのたかが10数年の間に、社会の70%が変化していくという事なのです。



その70%の未知の領域は、もちろん技術や科学の進歩による新たな産業の創出の場合もあるでしょう。この10年で言えば、携帯電話の普及、スマホの登場は、技術の進歩とともに大きな産業の創出の場となったはずです。そして同時にもう一方で、その時の社会の問題に取り組んだ結果としての仕事の創出もあったはずです。介護の領域の仕事がその代表だと思いました。

その場その場での問題に目を向け、その解決を社会システムに組み込む…仕事として成立させる…これこそ、問題に対し、自分で考え判断する、自律的市民のリーダーシップが力を発揮するところなのではないかと思うのです。



【フロント‐エンドの教育】の限界は、10年単位で社会が劇的に変わっていく現代社会の、当然の帰結だと私は考えます。そしてそれは教育の在り方だけでなく、社会人としての、仕事や生活に対する意識も変わっていかざるを得ない事なのだと、私は思うのです。








9月4日(水)

 【自律的市民】


 美しい金色の稲穂の波  渦巻く風が雲を呼び

 蒼天に立ち上る雲の峰  光と影とが大地に彩を為す

 時の移ろいは微かでも  季節の巡りがまた実りを結ぶ

 夕日に明日を見る様に  三度迎える日高見の秋を思う



 古いページを捲ると、忘れかけていた出来事や言葉が目に飛び込んできます。何を思い、何を考え、何を為し、何を為し得なかったのか。

 思い起こされるのは、「復興は最終的には【教育】だ」と思い、友と話してきた日々のことです。そこに手を出すのは容易なことでではありません。友の中には教育現場に身を置く者もありますが、もちろん教育現場でどうこうするには限界があります。

 復興とは社会実現であり、被災の対が復興(社会実現)なら、支援の対も社会実現だろうと考えるに至り、改めてこの大きな大きなテーマに思いを馳せます。


「復興は最終的には教育だ」と言いはしても、それは上からの、大上段の改革的な教育というものではないのでしょう。自然発生的な広がりを持つ小さな取り組みの積み重ねというのとも違うと思います。

 東日本大震災があり、多くの人が被災をして、そしてそれ以上の多くの人が復旧復興に、あるいはボランティアとして、あるいは仕事として、あるいは当事者として関わって起こる意識の変化を基にしたものであるように思います。ただしそれは、見過ごしてしまえば通り過ぎてしまう変化の芽であって、その芽を見つけ、育てていく、社会のフォローが必要なものと思うのです。



 私は、この二年半の活動の中で、時折意図的に実験をしてきたような気がします。私だけでなく、多くの人が時に意欲的な取り組みをしてきたのではないかと思うのです。

 私の場合、その最大の実験が、震災直後の瓦礫撤去・泥掻きのボランティアの頃の【アモール石巻】で行った実験でした。

 それは班を組んで瓦礫撤去を行う際の班長を、年齢や実績で選ばなかったということです。リーダーシップは、誰もが取れる。明確な目的があり、その目的に対して同じ思いを持っていれば、その役を誰が担おうが自然に班内でバランスをとって、チームとしていい仕事ができる。それらのことを私が関わっている間ずっとやり続けてきたのです。時に私の担当エリアで10を超える班が、それぞれ別の活動をしていたこともあります。この時、それぞれがそれぞれに様々な問題に直面しながら、現場現場で班長を中心に現場の人間だけでほとんど対処ができています。これがいちいち判断や指示を仰ぐために携帯電話に電話をかけてこようものなら、私は一日中ひたすら電話を取り続けなければならなくなってしまっていた事でしょう。



 私は、これは、震災時の特例だとは思いません。もちろんボランティアに来ているという時点で、意志をもって来ている人というスクリーニングが既に為されています。

 私がいまこの事を振り返って何を思っているかというと、昨日の話題の【自律的市民】のことです。自由と平等、そしてもっと目先のことで言えば、復興や地域地方の問題に対して、この【自律的市民】を育て増やしていかなければ、復興の地方の活性化も無いのではないか、という事です。そしてこの【自律的市民】…問題に対し、自分で考え判断することのできる…というのは、まさに意志を持ってさえいれば、誰でもがリーダシップを持って事に当たれるということ、なのではないかと思うのです。






9月3日(火)

【コンドルセ】



少し前の話になりますが、本で目にした一文に私は大きな衝撃を受けました。

「自由で平等な社会の実現には、自分で考え判断することのできる自律的市民を育てることが不可欠である」~コンドルセ~

 この一文に出会い、私はこれをそのまま手帳に書き写しました。


 この言葉は、フランス革命の時に言われた言葉ですが、フランス革命から200年以上、【自由】や【平等】の概念が日本に入ってきて約150年、2013年日本の現代においても色あせることなく、まさに【正鵠を射る】です。

 現代日本は、本当に【自由】で【平等】な社会であろうとしているのかと言う問題はありますが、【自由】で【平等】な社会を謳う憲法を戴きながらも、コンドルセの言葉が示す【自律的市民】の成長過程にあると思わずにはいられません。

 東日本大震災以降、多くの人と出会い、関わり合いながら、もちろん多くのこうした【自律的市民】と話をし、共感してきました。けれども全体的に見れば被災現地の社会は、こうした【自律的市民】は少数派なのだと実感します。

 もちろん、コンドルセのこの言葉が意味するところは、自分で考え判断することのできる【自律的市民】にならないと【自由】と【平等】を享受できないと言っているのではないと考えます。コンドルセの言葉は、その社会を構成する市民全体が【自律的市民】にならないことには【自由】と【平等】が存在できないと言っているのではないでしょうか。

 それほどに【自由】と【平等】は、それぞれのポジションをとる人の、互いへの尊重と理解、そして意思統一の過程が大変なのだと思います。


 だからこそ、東日本大震災の復興は難しいのだと感じます。上意下達の社会システムの中では、見せかけでも平等な復興策など、どんなに探しても存在しないのです。八方まるく収まる様な満点の復興策など存在しないのですから。

9月2日(月)

『それは【当たり前】か』





何気ない日常の言葉から、思わず考えてしまうことがあります。

それはこんな会話でした。

「家族の中に病人が居れば、病人を基本に家族の行動を考えるのは当たり前のこと」

「家族の中に、子どもが居たり、お年寄りが居たりしても同じだよね」



家族というのは、社会の最小単位と言うべき存在ですから、もちろん、この【家族】のところを【社会】と書き換えても、おかしくないはずです。


けれども、この【家族】のところを【社会】に書き換えた途端、それは【当たり前】ではなくなるのです。

『社会の中に子どもが居たり、お年寄りが居たりすれば、彼らを基本に社会の規範を考える』…それは既に【思想】になるということに気が付きました。

 【思想】というとあまりにも大げさでしょうか。けれども社会をどう見るか…という視点から社会のカタチを描くのですから、大げさに過ぎるということもないように思うのです。





おこがましく【弱者救済】などと言うつもりはありません。それぞれがそれぞれに、精一杯…あるいは何となく…今を生きている。今の、現実の、処理能力の範囲内に於いて、出来る人が、その中で意識のある人が、出来ることをしていく。自然の動物の世界の中でさえ、許容できる範囲においては援けられるものは援け、無理なモノは無理として置いていく。

そのルールは簡単です。【できるだけ多くの生命を活かす】ということに尽きるのではないかと考えます。弱った一つの命を守ろうとすることで、その他のより多くの命が危険に曝されるようなことはしない。けれどもその弱った命が守れるのならば、その許容の範囲内において守る。草食動物の群れの、そういう行動はよくテレビ等でも目にします。

そこには【成果主義】に共通する概念が見られるように思います。


 

たまたまそのあと、『優先席で寝たふりをしていたり、スマホに熱中したりして、お年寄りに席を譲りもしない若者たち』に対する書き込みを目にしました。

事は、電車の席に関するだけの問題に留まらないように思うのです。












91日(日)

 『買って応援する』



 先日、牡鹿半島を、福島の果樹農家の渡辺さんと巡りました。

 福島の農業は、もう既に成り立っていないと私は思っています。渡辺さんも同じ考えで、福島で農業を続けることに見切りをつけ、自分の培ってきた技術を活かせる場所を探しています。その技術を活かす場所の一つとして、牡鹿半島を巡り歩いてみたのです。


 宮城に居ると、そこかしこのスーパーで福島産の果物が盛大に売り出されています。宮城生協は元より、福島が地元のヨークベニマル、山形の企業であるヤマザワまで、広告に目玉商品として安売りの果物を載せています。

 『買って応援する』と言うのは、聞こえはいいのですが、私にはそれが意味のあることに見えません。

 なぜならば、その特売価格の値段で流通しても、福島の農家には、ほとんど利益が残らないからです。むしろその値段でも売れてしまうことこそが、問題の本質をぼやかしてしまっています。

 【風評被害】のせいにして、『福島市は被災地ではない』と公言して憚らない行政がいい例です。むしろ、本当に売れなければ、原発事故を他人事としていられないだろうに、と思います。

 『買って応援する』ならば、農家に利益が残る値段で流通すべきだし、他県産の果物と同じ正規の値段で流通しないならば、むしろ流通させないことの方が、社会的に意味があると思わずにはいられません。

 『買って応援する』という建前のもとに、福島の農家は飼い殺しにされ、他県の生産者は福島産果実の価格に足を引っ張られて、市場価格が上がらないという社会現象が起きています。

 福島の生産者は、価格下落分は東電に請求すればいいと考えています。既に福島の農業が成り立っていないと私が考えるのはこの点です。消費者が福島産の農産物を買うことで、例えば本気で東電にお灸を据えようと考えているならば、それもおかしな話です。東電が支払う賠償金は、なんてことはない、結局は関東の電気利用者に、電気料金の値上げというカタチで跳ね返るだけです。既に東電の電気料金は他の追随を許さぬ値上げ率で、日本で最も高い電気料金になりました。国税の投入は、将来の負担として未来の社会に負担を押しつけているだけです。しかもそれでいながら、福島の生産農家への賠償は、既に昨年度分から滞っているのです。


 福島で、もがき苦しみ、様々な試みをして、福島での農業の模索を諦めた渡辺さんに宮城の牡鹿半島を見せたのは、正直言えば失敗でした。意欲をもって努力してきた渡辺さんには、意欲をもって努力すれば、いくらでも可能性のある地域は羨ましい場所でしょう。けれども、必ずしもそこに住まう人々が、意欲的に挑戦しているわけではないのです。

 農業は、楽で、楽しいほど儲かり、難しく、苦しむほど儲けの少ないという特色を持つ産業です。難しく、苦しくても、そこでの農業生産に拘るのは、その地域に愛着があるからです。単に産業として、仕事として農業を考えるならば、楽にできる場所で、楽しく仕事のできる環境を探して歩いたほうがいいのです。その土地に愛着を持ち、その土地での生業として農業を考える人が居ない場所では、苦しい農業はできません。


 【復興】は【社会実現】なのだと、【支援】の対も同じように【社会実現】なのだと考えました。

 いま、それぞれの被災現地は、どのような社会の実現を見据えて、復興の途にあるのだろうかと考えてしまいます。

 831日(土)

 【支援】の対になるものを考える





 関東に居れば、【暑さ寒さも彼岸まで】と言いながら、10月の強い陽射しのいく日かを覚悟して過ごした夏の終わり。

 東北に居ると8月中には秋が始まり、彼岸まではまだ暑い日もあってくれるだろうなと思いながら、長袖の用意を考え始める。

 意識をもって楽しまなければあっという間に過ぎ去ってしまう夏に、いまだ戸惑いながら、3回目の東北の夏が過ぎさっていきます。



 私の環境に変化があり、私が東北に居るのも、もう長くないようです。東日本大震災で環境や人生が変わった多くの人間の一人として、私の場合はそれは受動的ではなく、能動的に自分の環境を変えた人間ではありますが、震災後二年半という歳月を経て、次のステップに移ることになりそうです。

 


 現地にとって、【震災】と【復興】が対になるものならば、果たして圏外から被災現地に関わる者にとって、あるいは行為にとって、【支援】と対になるものは何なのでしょうか。




 『被災地に行かなければボランティアはできないのか?!』かつては、そんなことも考えました。もちろん社会の矛盾や、社会システムではカバーできない部分に目を向け行動することがボランティアならば、ボランティアは被災地でなくてもできますし、もちろんそういう行動をしている例はたくさんあります。


 社会システムでカバーできない部分に目を向け、行動することがボランティアならば、その行為をいつまでも続けていくことは、ボランティアとしては何も前進していないことと同義です。そこに問題があり、行動しなければならないことがあるならば、その解決に向けて動くことこそがボランティアであろうと思います。

 ならば、【支援】の対に来るモノは、【社会実現】という類いものではないでしょうか。




 省みれば、【震災】に対する【復興】というモノも、広義の意味において【社会実現】ではないでしょうか。ならば、圏外から被災地に関わった者も、その支援の行為の対に来るものとして【社会実現】へ向けて動くことこそ、支援の終焉であり、卒業過程であろうと思います。




 宮城・岩手・福島に関わりながら活動してきた二年半、もちろんこれらのいづれかの地で【社会実現】に向けて動くことも、支援からの卒業過程でしょうが、被災地で目にし、考え調べてきた様々な社会問題は、いづれも被災地の問題ではなく、震災によって露呈しただけの日本の社会が持つ根源的な社会問題であるならば、【社会実現】のための場所はどこの地であっても良いと思うようになりました。




 私が東北の地を離れるまでの残り少ない期間、少し二年半を振り返りながら過ごしてみようと思います。