木曜AC「幕屋」㉘ 2024.1.25

アロンの祝祷

主があなたを祝福し

あなたを守られますように

主が御顔をあなたに照らし

あなたを恵まれますように

主が御顔をあなたに向け

あなたに平安をあたえられますように

      民数記 6章24節~26節​

最初の「主」は御父、二番目の「主」は御子、そして三番目の「主」は御霊ということができます。御父は祝福の源泉です。主が祭司であるあなたを祝福し、「守られますように」は「シャーマル」で、権威を与えて祭司の働きがなされるようにと理解することができますね。そして、二番目の「主」は御子です。「御顔」は主の表現です。創世記1章でも、「われわれは人を神のかたちに似せて造ろう」と言いましたけれど、「神のかたち」は御子です。「御子は神のかたちである」とパウロは言いました。ですから、神の表現である「御顔」は御子です。御父が御子を通してあなたを照らし、その御子は「光」でもありますね。「恵まれますように」は原語では「ハーナン」です。これは「憐れむ」という意味ですね。イェシュアがこの世に来て「憐れむ」というときには、生まれつきの盲人であったり、足萎えであったり、そういう人たちを癒やしましたね。盲目の人の目が開かれ、歩けないものが歩けるようになるのは「憐れみ」です。また、多くの真理を知らない者たちが、覆いを取られて光に与る、そういう意味での「憐れみ」なんですね。「恵み」というと、一方的な神様の助けというか愛という感じですが、「憐れみ」の方がいいですね。イェシュアが来て、その憐れみを示しました。「覆いが取り除かれる」ということは重要なことですね。そして三番目の「主」、この御顔である「主」。パウロは「主は御霊です」という言い方もしているので、この「主」は御霊といえます。「向けて」は与えるという感じです。イェシュアが復活した後弟子たちのところにやって来たときに、二度同じことばを語られました。それは「平安があなたがたにありますように」でした。この「平安」が「シャローム」ですが、これを動詞にすると、「神様の計画が実現するように」という意味ですから、主の御霊である聖霊が弟子たち一人ひとりに祭司となるべく実現していくようにという意味あいを込められていると思います。ですから、祭司である私たちのとりなしの祈りがこの祈りの中に括られていると思います。そういう意味で私たちがこの祈りを用いながら、執り成しをし、またそれを受けるという意味にもなりますけれど、そのように理解していったらいいと思います。

「幕屋」を学ぶ上での大切な視点

幕屋は出エジプト記25章8節にあるように神である主がイスラエルのただ中に住むことがその目的でした。

「ミシュカーン」は「神が住む」(シャーカン)に接頭語「ミ」がついています。

神が住まわれる場所、または器でもありますね。私たちの中にイェシュアが来られた時、イェシュアは私たちのど真ん中に幕屋を造ってくれました。そのことがヨハネの福音書1章14節に書かれています。ここには神の表現である御子が「ことば」となっています。「ことばが人となって私たちの間に住まわれた。」これを回復訳によれば「わたしたちの間に幕屋を張られた」とも訳せるということです。私たちのど真ん中に神が住まわれて、神と人がともに住む家、つまり幕屋を張られたということですね。これは何時起こったのでしょうか。→「息を吹きかけられたとき」です。→そうですね。「あなたがたに平安があるように。実現するように」と言って、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」といったときに、私たちの霊の中にイェシュアが入ってきて、そのイェシュアの中には御父も御霊もいますね。三がいるんですよ。三が一となって私たちのど真ん中に入ってきて、そこから、キリストにある新しい創造を始められた。つまり、霊の中で神と私たちが共に住むということが実現しているんですね。この認識は非常に重要です。ヨハネによる福音書15章の「とどまりなさい」の意味が、私は信仰生活50年目で初めてわかりました。それは私たちの心ではなく、霊の中で起こっている現実なんだということを教えられたのです。そこから聖書を読み直すと、全く違うものが表れてきます。教理ではそういうことは語られていないので、教理で聖書を学ぶと、弊害が起こります。「人の霊から始まっている」という教理に触れたことがありますか。このことはすごい出来事ですよ。私たちは神の器として造られましたね。その中に神が入ってくるんですよ。それは神だけではなくて、神の知恵と知識の宝がすべて私たちの霊の中に入ってきているわけですよ(コロサイ2:3)。

幕屋が造られたのは、どこで造られたかというと、「荒野」で造られました。荒野で40年間、イスラエルは放浪しましたが、なぜ荒野だったのでしょうか。イスラエルはエジプトを出て紅海を渡って荒野に行きました。「荒野」のことを「ミドゥバール」と言います。「ミシュカーン」は神が住まわれる場所。これは私たちの霊の中に実現することで、神様がしようとしたことの型が実はミシュカーンの中にあったということです。同じく、神様は「荒野」にイスラエルの民を連れて行ったのですが、なぜ荒野に連れて行ったのですか。また、バプテスマのヨハネはなぜ荒野で暮らしていたのですか。なぜ、イェシュアは毎日のように寂しいところ(=荒野)に行って祈っていたのですか。それは、「ミドゥバール」ということばがちゃんと示しています。「ミドゥバール」は「ダーバール」「神が語る」というという意味です。「神が語る場所」に人々を連れて行ったのです。エジプトからきっちりと縁を切って紅海を渡るということはイスラエルの洗礼だったわけです。エジプトの生き方から完全にそれを捨てて、神のことばによって生きるものにされる、そういう者になるために神様は彼らを荒野に連れて行ったわけです。私たちも荒野が必要なんですよ。彼らは神のことばに聞き従うことによってパンも与えられ、水も与えられましたね。また敵からも守られました。その荒野ってどこにあるんですか。私たちの。イスラエルの人たちはこの荒野で耐えられなくなって、エジプトのニラやにんにくやスイカが食べたいと言って、地にあるものを思い出して、エジプトを恋しがりました。そういう者たち、第一世代の者たちは、カレブとヨシュアを除いて全員死にました。本来は神の民が神のことばによってのみ生きることを学ばせるために荒野に連れて行ったのですね。そこで幕屋が造られました。私たちにも荒野が必要なんですよ。荒野のないクリスチャン生活では「神のことばによって生きる」ということが実現しないのです。私たちにとっての荒野はどこですか。これが「霊の中」なんですよ。「霊の中」そこにしか神のことばがないんですね。イェシュアがそこにいる。イェシュアの語ることばはすべて「霊でありいのち」ですから、そのイェシュアが私たちの霊の中にいるのですから、「荒野に行く」ということは私たちが霊の中に生きるということなんですね。そのことによって多くの実を結ぶと。ヨハネの福音書15章はそういうことと結びついて来るということを初めて知ったのが信仰生活50年経ってからですよ。それで、このアシュレークラスでそういうことを教えているんですけれどね。心で神様と交わろうとすると、心(たましい)にはサタンが足場を築いているので難しいですね。霊の中で生きるということが、いろんな嵐が来たとしても至聖所を見つけて、つまり、台風の目の中で主のみことばを聞いて養われていく。そういう生き方を神様が設定しているにもかかわらず、私たちが気づかないですね。そういう意味ではもっともっと憐れみが必要です。覆いが取り除かれるということが必要なのです。そして心理を知るということが。教理とか伝統とか神学とか教えとかに私たちがより頼んでいくと、本当のものが見えてこないということですね。私も教会で何度も挑戦しました。聖餐式をやろうと。でも今は聖餐式をしなくていいと。みなさん、このアシュレークラスが終わってから、一緒に聖餐式をやっているんですよ。一緒にイェシュアのことばを学んでそれをともに味わい、預言しあっている、これが聖餐式の本質です。だから儀式にとらわれる必要はないのです。月に一回とか三大節の時、誰かが洗礼を受けた時、など、だれが決めたんですか。聖餐式とはイェシュアのことばを食べ、飲むことでしょう。ですから、私たちはなんと今まで儀式でごまかされていたことかと。それをしなくていいということは、真理をつかまないとできないですね。それを重んじている教会からはバッシングを受けますね。カトリックにしても本当はパンとぶどう酒なのですが、ぶどう酒はたいへんだからパンだけだそうです。儀式としても中途半端だし、真意においても本質から外れているんですよ。ミサに与れば礼拝したことにと思っているんですね。ごまかしではないですか。初代教会は使徒たちからイェシュアのことを聞いて、そしてイェシュアを食べ飲みしたのです。それがパン裂きという形になっていくのですが、それが儀式になってくるといのちは形骸化していきますよね。うちの教会は聖餐式をやっていないから何か欠けているのではないかと思っていたんですけれど、聖餐式という儀式はしなくてもいいんだと。聖餐式をするためにはそれ用の道具を買って、パンも種無しパンをといって、揃えてみたところで、聖餐になっていないわけですよ。私たちがイェシュアを食べ、飲むということができていなければ、どんなにありがたく思ってやったとしても、あまり意味がないのではないですか。私はこれからヨハネの福音書をやっていくのですが、ヨハネの福音書は伝統とかしきたりとか儀式とか、そんないのちのないものは捨ててしまえということです。いのちによって生きよということなんですね。これに目覚めることが本当の祭司になるかどうかの決め手になると思います。そういう意味でさっきのアロンの祝祷は非常に重いですね。祝福を受けるということは祭司としての祝福を受けるということです。そのための権威を与えられ、覆いが取られて奥義が見えるようになりそれを悟って、本来の祭司に造り変えられていくというのがアロンのとりなしの祈りの骨頂ではないですか。では今日の学びに入ります。

1「机」(シュルハーン)①

●今回は「机」「シュルハーン」の学びです。このヘブル語シュルハーンを見てなにか見えてきませんか。この中に「シャーラハ」ということばが隠れています。「シャーラハ」は「遣わす」という意味ですね。つまり、「遣わされたもの」で、机そのものがイェシュアのことを表しています。「机」は「卓台・食卓」とも訳され、その上にパンを載せる台です。その箇所を出エジプト記とレビ記から見てみましょう。

【新改訳2017】出エジプト記25章23~30節

23また、アカシヤ材で机を作り、その長さをニキュピト、幅を一キュピト、高さを一キュピト半とする。

24これに純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作り、

25その周りに一手幅の枠を作り、その枠の周りに金の飾り縁を作る。

26その机のために金の環を四つ作り、四本の脚のところの四隅にその環を取り付ける。

27環は枠の脇に付け、そこに机を担ぐ棒を入れる。

28アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせる。

29また、注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、瓶、水差しを作る。これらを純金で作る。

30机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

※「臨在のパン」(「レヘム・パーニーム」

ここには机の大きさや材料などの概観が書かれています。1キュピト45cmとすると、90cm×45cm×70cm弱ぐらいですから、大きなものではないですね。その上にトレーが置かれて12個のパンが置かれます。机はアカシヤ材で作ってそれに金がかぶせられています。イェシュアの人性と神性が表されています。聖所と至聖所の中にあるものはすべて金で作られています。

机のそばには、注ぎのささげ物のための皿とか柄杓、瓶水差しが、どこかはわかりませんが置かれています。パンは絶えることなくいつも置かれています。

1「机」(シュルハーン)②

次はパンについて説明されているレビ記を見てみます。

【新改訳2017】レビ記24章5~9節

5あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。

一つの輪形パンは十分のニエパである。

6それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。

7それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。※「覚えの分のパン」「レヘム・アズカーラー」

「記念する」

8彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。

これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。

9これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。

これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、

永遠の定めにより彼に与えられた割当だからである。」

ここではパンについて説明されています。パンの材料は小麦粉です。12個のパンを焼いてそこに置くということですね。置き方も設定されています。それぞれの列に純粋な乳香を添えることが記されています。小麦粉で焼いたパンに乳香を添える。ここで小麦粉というのは預言的奥義的です。イェシュアが来ないと意味がわからないですね。イェシュアが来て一粒の麦(小麦)が地に落ちて死ななければ多くの実を結ぶことができないと言いました。小麦は「死」を表します。そして乳香は復活を表します。イェシュアが生まれたときに東方の博士が黄金、没薬、乳香を持ってきました。黄金は「王」、没薬は「死」、乳香は「復活」を表しています。これも預言的ですね。

ですからパンを食べることによって、イェシュアの死と復活を食べているということになります。しかもそれを「覚えの分のパンとして」、これは記念のパンですね。「レヘム・アズカーラー」と言います。その中に「ザーハル」「記念する」ということばが入っていますね。しかもそのパンは安息日ごとに新しいものと取り替えられて、7日間、聖所に置かれています。そのパンをアロンとその子らが聖所で食べるのです。これが「最も聖なるものである」と言っています。パン種が入っていませんから、カチカチになります。それをぶどう酒や水で柔らかくして食べるのでしょうね。

●机の上に置かれたパンはイスラエルの民に与えられた「マナ」(原語は「マーン」)とは異なります。ここにあるパンは祭司たちに与えられる食物です。それは「臨在のパン」とも「覚えの分のパン」とも呼ばれます。これは「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださっている」(エペソ1:3)ことを知るための霊的な食物の「型」です。(天上=神)これを食べないと神にある霊的な祝福を私たちは受けることができないということですね。

1「机」シュルハーン」③

ACでは聖所の学びを「純金の燭台」から始めました。しかし、出エジプト記での順序は、机の「臨在のパン」の後に燭台が記されています。この順序は後のヨハネの福音書が踏襲しています。「いのち」と「光」はセットとして、それぞれの語彙が40回ずつ記されています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書1章4節

この方(=ことば)にはいのちがあった。このいのちは光であった。

●幕屋における「いのち」は「臨在のパン」、「光」は「純金の燭台」に相当します。「いのちと光」は二つで一つです。(「二」は証しの数です。やがて「二人の証人」が表れます)いのちのことばは光を生み出し、光はいのちのことばから来ます(創1:3)。いのちにおいて成長すればするほど、ますます光を受けることになります。それゆえ、私たちは「いのちを与えるキリスト」を常食として食べ、いのちの供給を得る必要があります。

①【新改訳2017】詩篇119:105

あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

②【新改訳2017】詩篇119:130

みことばの戸が開くと光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。

1.「机」(シュルハーン)⑤

●「手幅」と訳された「トーファハ」で、単数形で示されていることから、1トーファハという「幅」の単位を意味します。それは「手のひら一つ分」、つまり人差し指から小指までの幅で訳7.5cmです。それが「枠」の幅(あるいは高さ)を表す寸法なのか、あるいは、内と外の二つの「枠」があって、その間の距離を表す寸法なのかがはっきりしません。そのため、この「手幅の枠」には二つの解釈があります。

●一つは、左下の図のように、「枠」自体の幅(あるいは高さ)を表すという解釈で、手幅の枠の飾り縁と、それとは別にもう一つの飾り縁が下にあるという解釈です。

●もう一つの解釈は、右下の図のように、「枠」と「枠」の間の距離を表すという解釈です。つまり、手幅の枠の飾り縁と、それとは別にもう一つの飾り縁が内側にあるという解釈です。

 

これは何を意味するのかということですが、前にもミシュカーンの幕を学んだ時に、十枚の幕を五枚ずつのワンセットにして、それが青い紐の輪と金の留め金で結ばれていることを見ました。それは「互いに」(女とその姉妹)ということばに表されている「イスラエルと教会」を結び付けるのは神様しかいないことを表していました。ここでも、「二つ」ということは「イスラエルと教会」と解釈することも可能だということですね。いずれにしても、机はイェシュアを表し、その上のパンを食べるのはイスラエルの者たち、そして教会の者たちであるからですね。

2「臨在のパン」①

●「机」は原文では「その机」(「ハッシュルハーン」となっており(シュルハーンに定冠詞がついている)、それが御子イェシュアを啓示していることは明らかです。「机」の上に「パン」「レヘム」が、そして「注ぎのささげ物」としての「ぶどう酒」備えられているのです。それはイェシュアご自身とも言えます(マタイ26:26~29)

●冠詞付きの「ハッシュルハーン」の上には十二個のパンが六個ずつ二列に並べて置かれます。これらは「臨在のパン」と訳されています。常に主の前に置かれているパンです。原文ではそれを「レヘム・ハッパーニーム」となっています。「(御前の)供えのパン」という意味です。これらのパンは金曜日に焼かれて、その日の夕方(安息日)から次の安息日までずっと机の上に置かれ、そして新しいパンと交換されます。そのパンは捨てないで食べるんですね。一週間かけて。Ⅰサムエル記21章4~6節では、ダビデがサウルに追われた時に祭司のところに行ってパンを分けてくれませんかと言いますが、そのところで「臨在のパン」が「聖別されたパン」と言われています。言うまでもなく、そのパンは「種なしパン」です。ですから固いです。

皆さんはわざわざ固いパンを買いませんよね。でも祭司は固いパンを食べるのです。柔らかいものを食べるのは肉に属する人です。固いものを食べるのは成熟した人です。イェシュアの語られるパンはだれにでも食べられる柔らかいパンではないです。固いパンです。祭司たちはそれを食べていたのです。固いパンですけれど、実に内容のある、深いパンですね。普通だったらキャンセルしてしまうようなパンですが、でも、それを食べることによって神様の奥深いことに触れていくわけですね。牧師の話を聞いて「先生の話は難しくて聞いていられません、それに長いし」。これは固いからですね。「もっと柔らかい話、分かる話にしてください」と言って、牧師が自分の体験やテレビを見ればわかるような、この世のことを解説したり、それは柔らかく食べやすいようにしているのですけれど、そこにはいのちはないですね。それは牧師でなくても語れます。本当の祭司にしか語れないのが固いパンなのです。それに与る時にいのちに与るのです。「食べる・飲む」の話。イェシュアも大麦のパンで五千人の人を養いました。お腹いっぱい食べて、まだ残りを集めたら「いっぱい」なんですよ。食べても食べても減らないのです。そういう救い主ならいいなあということで、人々はついていきましたが、イェシュアの意図することは何も悟っていなかったわけですよ。そして、そのあとイェシュアが、そのしるしの本当の意味を言いますね。「わたしの肉を食べ血を飲むものは永遠に生きます」と。それを聞いた群衆はその話を「気持ちが悪い」と言ったのですよ。そして、イェシュアから離れていったのです。弟子たちも。十二使徒は別ですが。「気持ち悪い」そんなレベルです。イェシュアのパンを食べ、またぶどう酒を飲むということは固いものではないでしょうか。聖書は最初から「食べる」―エデンに生えさせた木を「すべて食べよ」ですよ。でもその中から善悪の知識の木だけを取り出して食べると死ぬよと神様は言われました。これは預言的なことばなのでイェシュアが来ないとわからないのですけれど、とにかく、わたしが生えさせた木を、これは人のために与えたものなのですが、木を「食べよ」なんですよ。そしてエデンの園には水が流れていますね。自由にではなくてその水を飲まなければならないのですよ。「わたしの与える水を飲む者はその人の霊の中から生ける水があふれ出るようになる」ために与えている水なんですね。ですから、食べたり飲んだりすることは聖書の全巻貫いているのです。祭司がその務めをするために必要なのはその、エデンの園の木を食べ、そして水を飲むことです。それが一貫しているんですよ。新しいエルサレムでも御座からいのちの水が流れてきて、その流れている川のそばにいのちの木が生えています。そのいのちの木には毎月ごとに実がなり、それを食べていくんですね。祭司が食べ、飲むのは永遠の務めであり、永遠の神様の御心なんです。でもそれを私たちのたましいで食べ飲みしようとすると固いのです。

2「臨在のパン」 ②

●聖書は「祭司の書」であると同時に、「イェシュアを食べる(飲む)書」です。なぜなら、イェシュアの肉を食べ、血を飲むことによってイェシュアと一つになり、永遠のいのちに与ることができるからです。

●ここでは「パン」だけが扱われているように見えますが、同時に「ぶどう酒」もあるのです。ですから「注ぎのささげ物」(=ぶどう酒のささげ物)をささげるのに用いる付属品(複数)も純金で作られているのです。なぜ「パン」が代表しているかというと、肉(からだ)がなければ血もないからです。「からだ」を食べるということは「血」もそこにあるということで、「パン」と「ぶどう酒」は一つであって、それをパンが代表しているのです。これはイスラエルだけではなくて、すでにアブラハムに対して、メルキゼデクが何者か分からずに登場して、パンとぶどう酒でアブラハムを祝福しているのです。ですから聖書の初めからこういうことが書かれているということです。

3「パン(=レヘム)」の奥義 ①

●イェシュアが弟子たちに教えた「主の祈り」がありますね。弟子たちが

イェシュアが一人になって祈っているらしいというのを感じて、「私たちにも祈りを教えてください」と言って、イェシュアが教えたのが「主の祈り」です。その祈りの中に「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」があります。ここでの「糧」とは「パン」(「レヘム」のことです。一見単純に見えるこの祈りは、実に驚くべき内容を秘めています。ほとんどの教会では主の祈りを祈りますけれど、ただ口真似して言っているのではないですか。

●四つの福音書がこぞって記している「五千人の給食」の奇蹟があります。このことは先ほど話しましたので説明は省きますが、―日ごとの糧=「パン」を今日も与えてくださいーそして、イェシュアが五千人の人に「パン」を与えました。この「パン」とは「イェシュアのからだ」です。イェシュアのからだを食べる。イェシュアを食べるということですね。

3「パン(=レヘム)」の奥義 ②

●かつてイスラエルの民が、長い間奴隷となっていたエジプトの国から脱出して、荒野の旅を余儀なくされた時、民は水や食べ物のことで「つぶやき」はじめました。もしそのような視点から「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈るならば、イェシュアの意図からは全く離れたものとなってしまうのです。

●「日ごとの糧」と訳されると、「毎日の糧」(デイリー・ブレッド)というイメージを持ってしまいます。「日ごとの」にはギリシア語「エピウーシオス」が使われていますが、実はここにしか使われていない珍しい語彙なのです。これをヘブル語では「フーケーヌー」、現代訳は「フッケーヌー」と訳しています。「レヘム・フッケーヌー」は「神が定めておられるパン」「神が私たちに食べてほしいと願っておられる必要なパン」という意味になり、それを日ごとに求める祈りなのです。主の祈りでその前は「御心が天でなるように地にもなしてください」という御国を願う祈りなので、それに続く祈りとして「日ごとの糧を与えてください」と祈れということはその神様の計画を、今日知るように定められた糧を与えてくださいということになりますね。それは私たちにとって食べやすいものではなく、祭司が食べていたパンのように、むしろ「固い食物」です。しかしそれは必要不可欠な、無くてはならない「神から受けるべきものとして定められたパン」を意味しています。それを「ください」と祈れるかどうかですね。御国がこの地になるための、御国について知るべき教えを今日与えてくださいという、日ごとに与えてくださいという意味です。それによって祭司たちが生きていくということですね。常にそのパンは臨在のパンとして、神のものとして置かれていて、祭司たちは一週間かけてそのパンを食べるのです。一週間経つとまた新しいパンが供えられて、というかたちになります。

3「パン(=レヘム)」の奥義 ③

●「日ごとの」をヘブル語に戻すと、二根文字qjを親語根とするいくつかの周辺語彙が浮かび上がります。

          

(1)動詞「ハーカク」は「刻みつける、制定する、確立する」

(2)動詞「ハーカー」は「彫り込まれる、しるしをつける」

(3)名詞(女)「フッカー」は「おきて、ならわし、定め」

(4)名詞(男)「ホーク」は「定められたもの、分け前、受ける分、一定の分」

●これらを与える主体は常に神です。ヘブル語の動詞の基本形は三人称単数、すなわち神ですね。ですから、神とのかかわりにおいて、神が決めておられる大切なこと、神が望んでおられるもので、これが永遠のいのちに至る食物のために必要な「私たちの受けるべき分」なのです。多くもなく、少なくもなく、私たちが受けるべき必要な分として与えてくださいという祈りが、「日ごとの糧を今日も与えてください」という意味なのです。私たちのたましいにとって今日生きるエネルギーとなる糧を与えてくださいというのとは違うのです。神様が望んでおられる、決めておられる大切なこと、それは御国のことですね、そのために必要なことを、神様は日ごとの糧として与えたいと願っているのですから、それを求めることが私たちの本分です。祭司としての本分です。私たち祭司のたましいの養いのために与えてくださいということは、神様のしたいことはわかっていますけれど私たちが元気になるように、私たちが自己実現するように必要な糧を与えてくださいという意味とは全く違うものですね。でも多くのクリスチャンは、今日私たちのたましいを養ってくれる栄養あることばをください、とするなら、神様の意図から外れていくのではないですか。そういった者は常に自分を食べているので。イェシュアの語ることばよりも、私たちが元気づく、たましいが元気づくようなことばを探して、それを与えられたもののように思っているわけです。でも実はそれは私たちが選んで食べているのですから、私たちしか立ち上がらないわけです。しかし、神が与えようとするもの、神様が決めている大切なことを日々私たちが食べていくなら、本当の祭司が立ち上がってきますね。またそのみことばに隠されている奥義、神様の計画を正しく知ることができますよね。でも私たちのたましいを生かすようなことばであれば、いくら食べても神様の計画は見えてきませんよね。語ることもできません。私たちのたましいを励ますことばしか食べていないので。それが現代の教会を覆っていることではないでしょうか。

3.「パン(=レヘム)」の奥義 ④

●「糧、パン、食物」を意味する「レヘム」の動詞「ラーハム」は「食べる」ことを意味します。それ以上の頻度で、動詞「ラーハム」は「戦う、攻撃する」という意味で使われています。ちなみに類義語として「食べる」という動詞「アーハル」、その名詞「オーへル」があります。その方がむしろ一般的です。ところで、「食べる」ことと「戦う」ことがどうつながるのでしょうか。

(1)「食べる」を意味する「ラーハム」は6回。その初出箇所は「あなたは顔に汗を流して糧を得る」(創3:19)とあります。これは預言的なことばです。なぜ顔に汗を流して糧を得るのかといえば、罪のゆえに土地がのろわれて、荒地の象徴である「いばらとあざみ」が生えるようになったゆえに、それと戦って糧を得るための苦しい戦いをされるのは最後のアダム・イェシュアです(ルカ22:24/ゲツセマネの祈り)。大地がのろわれたので、神のことばを食べ、それを分かち合っていくということが「戦い」なんですね。その結果、イェシュアのからだは大地(=「ちり」)に帰る(死)のですが、そこから復活されることで私たちにいのちを与える霊となられたのです。

(2)「戦う」を意味する「ラーハム」は177回。重要なことは、「戦う」主体が、神ご自身であることです。ですから神の民は「つぶやくことなく」、主に信頼して「黙っていること(沈黙)」が求められます(出14:14参照)食べることは戦いを意味します。食べることによって神が働くということですね。神が道を開くということです。ある牧師がなんとか教会に来る人が増えるように、教会が成長するようにと一生懸命頑張っているけれどもなかなか思うように行かない。伝道集会などをたくさん開いて頑張ってきたけれども疲れ切ってしまった。そこで神様のことばに集中して、神様の語っている奥義や計画を深く理解していく、そのことに専心した時に、黙っていても人が集まってきたという話です。神様の糧を、その真意を求めていく時に神が戦ってくれて、そしてそれを食べる仲間が増えてきたという話です。

3. 「パン(=レヘム)」の奥義 ⑤

●神の御子イェシュアは言われました。「何を食べようか、・・と言って、心配しなくてよいのです。・・あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:31~33)。これは誰に語られたことばでしょうか。弟子たち、すなわち祭司たちです。祭司たちに与えられた不変の塩の契約です。「パン」を意味する「レヘム」に対応するギリシア語は「アルトス」です。

新約で最初にこのことばが登場するのは、マタイの福音書4章3~4節です。「パン」にかかわるサタンとの戦いの場面です。

【新改訳2017】マタイの福音書4章3~4節

3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

40日40夜の断食の後この誘惑が来ます。勝負はついています。イェシュアはそれからだれにも忖度すること無く、神のことばを、御国の福音だけを語り続けることに徹していきます。一時はそれをだれも理解することなく弟子たちも離れていきましたが、やがて、復活の後、イェシュアが息を吹きかけて弟子たちが聖霊を受けると、それを理解していくことになりますね。そして、教会が成立します。

●「人が真に生きるために必要なパン」とは、食べる食糧としてのパン(bread)ではなく、神の口から出る一つ一つのことばを意味しています。それは御国の福音から発せられた神のご計画であり、みこころ、みむね、そして目的です。このことを教えるために、神の口から一つ一つのことばが発せられるのです。この背景にも不変の塩の契約があります。イェシュアが普通のパンを食べるためにどんなに苦労したかって書いてありませんね。イェシュアの経済、食べるもの、生きるための必要について、全く聖書の中に書いていないのではないですか。イェシュア自身が祭司であり、塩の契約の中に生かされているので、すべてが与えられているという一つの証拠ですね。

3.「パン(=レヘム)」の奥義 ⑥

●イェシュアは弟子たちに、「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」(ヨハネ4:32)と言われました。しかし弟子たちも、また多くの群衆も、その真の意味を悟ることができませんでした。これは今日においても然りです。

あなたがたが知らない食物をわたしは食べているんだということですね。それは神のみこころをなす、言ってみれば御国の福音そのものが食物だったわけですね。これを得ることができないと、将来「みことばの飢饉」が来ることを預言者のアモスは預言しました。それは神のみことばが語られていても、その真の意味を悟ることができないでいる状態のことです。そうした「みことばの飢饉」が現代の教会を襲っているのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います」と語られたイェシュアのことばだけが、私たちを真に生かすだけでなく、現実の中で襲いかかって来るさまざまな恐れに打ち勝たせる唯一の力です。シェーム・イェシュアによって御国の福音に目を向けてそれを語りだし、霊の中で生きていくことが現実の中でさまざまな恐れに打ち勝たせる唯一の力なのですが、そうはしないで、たましいを癒やすみことばだけを求めているので、そこにはいのちがないということが、この「みことばの飢饉」の意味するところです。

●イェシュアの語ることばは天の父の心であり、その心を啓示するための御霊がかかわっておられます。みことばは三一の神ご自身なのです。したがって、私たちがイェシュアのことばを聞いてその真意を悟るためには、御霊の助けが必要なのは言うまでもありません。「三」が不可欠です。「三」を強調しなければなりません。ものみの塔もユダヤ人も「一」を強調しますが「三」がわからないためにたましいの世界で止まってしまっているわけですね。「三」は人間的な概念や思考では悟ることができないのです。

3.「パン(=レヘム)」の奥義⑦

●ユダヤ人の指導者ニコデモも、イェシュアを神のもとから来た教師として認めながらも、イェシュアの語ることばを悟ることができませんでした。このことは、ニコデモだけでなく、神のことばを学んでいるパリサイ派の人々、また多くの群衆もそうです。たとえ、彼らがイェシュアを捜し求めたとしても、それはイェシュア自身を求めていたのではなく、目に見えるパンを求めていたのです。そのようなレベルでイェシュアとかかわっているならば、「みことばの飢饉」が訪れるのは明らかです。

●「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない」(マタイ13:14)。なぜそうなのでしょうか。それは主を尋ね求めることをしていないからです。「みことばの飢饉」から救われるためには、ダビデのように、主を尋ね求めることが不可欠です。ダビデの霊性やマリアの霊性が今日叫ばれているのはそのためです。キリストの再臨が迫っているこの時代は「惑わし・嘘」が横行します。その勢いは増大し、反キリストにおいてはMAXまで達します。それゆえ教会における祭司性の回復、祭司の再建(建て上げ)が必要なのです。一人で戦うのではなくて祭司軍団として戦う必要がありますね。神様が今それを建て上げようとしているのではないですか。私たちもその中に加えられているのではないですか。

今回のまとめ

●「食べる」ことは(「飲んで」「消化する」ことも入っています)それと一つになることです。消化するためには神の計画を知らないと消化できませんね。一つになることを、新約では「メノー」、つまり「とどまる(※)」という語彙で表現しています。いのちの木を食べるなら、いのちの木と一つになります。しかし善悪の知識の木だけを食べるなら、それと一つになるのです。祭司として何を食べるかはとても大切なのです。

※「とどまりなさい」はギリシア語ではアオリスト命令形、過去の命令形という不思議な形です。強制されずに主体的に、過去に一度限り包括的に起こったことにとどまっていくという不思議な用法なのではないですか。イェシュアが過去に一回限り、包括的に成し遂げてくださったことにとどまりなさい、ということではないですか。

【新改訳2017】エゼキエル書3章2~3節

2 私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、3 そして言われた。

「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。」

私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。

●神のみことばを「食べる」器官は「人の霊」です。それをたましいで食べるなら、必ず神のみこころから離れて死をもたらします。私たちは祭司として、神のことば(トーラー)を「甘い」と感じさせるような霊的なグルメの水先案内人となるように定められているのではないですか。ですから、大きな責任があるのです。