木曜AC「幕屋」㉗ 2024.1.18

「幕屋」を学ぶ上で大切な視点

②【新改訳2017】出エジプト記25章8節

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。

そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

イスラエルがエジプトから追い出されたことには目的がありました。それは、彼らの中に神ご自身が住まわれるということですね。そしてイスラエルの民が王なる祭司となるためにこのミシュカーンを造ります。でもイスラエルの民はそれに失敗しています。それゆえにイエス・キリストは人となって私たちの間に住まわれる必要があったのですけれど、

③【新改訳2017】ヨハネの福音書1章14節

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方の栄光を見た。

このヨハネ1章14節は、私たちの間に住まわれるためにイェシュアは人となってこられて、そして最初のアダムを終わらせて、三日後によみがえって、「いのちを与える霊」となって私たちの間に住んでくださるということが宣言されています。「私たちはこの方の栄光を見た」ということは、私たちの内側に霊がプレーローされたことを経験したということが語られているわけですね。

神が私たちのど真ん中に住むようになった。これはイェシュアが来てそれをなしてくださったわけです。そこには「神の知恵と知識の宝がすべて隠されている」(コロサイ2:3)というわけです。

ヨハネの福音書15章4~5節「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」これは霊の中でなされていることですね。ど真ん中にとどまります。そこがしっかりする時に必ず実を結ぶということが約束されています。たましいでも心でもなく霊の中にとどまることをイェシュアは語っています。

1前回の学びの確認と今回の学び

●メノーラーの形状から「台座と支柱」の奥義と「アーモンドの花」の奥義について学んできましたが、今回はその付属品である「芯切りばさみ」と「芯取り皿」の奥義です。

【新改訳2017】出エジプト記25章38~39節

38その芯切りばさみも芯取り皿も純金である。

39純金一タラントで、燭台とこれらのすべての器具を作る。

【新共同訳・聖書協会共同訳】は「芯切り鋏と火皿」

一タラントから取り出した純金のかたまりから内叩き法でメノーラーを作ります。その残りの部分で芯切りばさみと芯取り皿を作るのです。

●「芯切りばさみ」は「メルカーハイム」で、芯を整えたり、焦げた部分の芯を取り除いたりするために使われます。純金ですから、その行為は神性なものを表します。そしてその芯を入れるために使われるのが「芯取り皿」「マフター」です。祭壇から火を取って聖所の香壇まで運ぶ火皿も「マフター」と言いますが、これは純金ではなく青銅で作られています。(出27:3)

2「芯切りばさみ」の奥義①

●「芯切りばさみ」は「メルカーハイム」で、双数形です。それは純金で作られており、イェシュアの神性を表しています。焦げて黒くなった「ともしび皿」の芯の部分を表しています。焦げて黒くなった「ともしび皿」の芯の部分を切り取ることで、「ともしび」を常に明るく保つ務めです。この働きは祭司の役目なのです。

●メノーラーの「芯」は植物の繊維で作られており、これはイェシュアの人性を表しているかもしれません。人となって来られたイェシュアは、いのちのことばの奥義を人々に語ります。イェシュアの語ったことば(レーマ)の芯を切る必要はありません。しかしそれを聞く私たちにとっては、日ごとに整える必要があるのです。そこに「芯切りばさみ」の必要性があります。それは、いわば「理解の型紙」を切り取り、日ごとに神のことばという「ともしび」を整えて灯す務めです。その務めは絶えず光の中に(=霊の中に)生かされることを意味します。「くすぶる灯芯を消すこともない」(イザヤ42:3)メシアの務めと同様に、祭司の重要な務めなのです。イェシュアも祭司の務めをするために来たので、黒くなってくすぶっている灯芯を消すことなく赤々と灯すことをしたわけですね。私たちもイェシュアと同じように祭司の務めを引き継いでいます。

2「芯切りばさみ」の奥義 ②

●「芯切りばさみ」の「メルカーハイム」の語源である動詞は「ラーカハ」です。それは「取る」という意味で、その初出箇所は以下です。

【新改訳2017】創世記2章15節

神である主は人を連れてきて、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。

「連れてきて」というところが「ラーカハ」です。人をちりから造り、鼻から息を吹きかけて生きるものにしますよね。その人をエデンの園に連れてきた。これはただ連れてきたのではなくて、「めとる」ために連れてきたという意味もあります。この「ラーカハ」は結婚用語でもあるのです。神と人が最も親しい関係である結婚の関係を持つために連れてきて、そこに置いて、「耕させ」「守らせる」ということが記されています。人を連れてきた目的は人をエデンの園に置いて、そこを耕すことです。「耕す」と訳された「アーヴァド」は祭司用語で「仕える」という意味です。また「礼拝する」という意味でもあります。ここから神の「しもべ」「エヴェド」という語彙が派生します。「しもべ」というと、何か下っ端のようなイメージを持ちますが、聖書において「神のしもべ」といえば、モーセとかダビデとかダニエルというようなすごい人にしか使いません。黙示録に行くと、神と顔と顔を合わせる人が「神のしもべ」なんですよ。つまり、聖書においては最高の称号なんですね。「神のしもべモーセ」「神のしもべダビデ」といえば旧約を代表する素晴らしい人物ですね。そういう人たちにしか使わないことばで、やがて私たちが新しいエルサレムに住むときには「神のしもべ」となるんですよ。最高の称号が与えられるんですね。ということは「耕す」とは農夫のように土を耕すのではなく、神と人が共に住むエデンの園で、人が祭司としての務めを果たすことです。それが人をエデンの園に置いた目的です。祭司の務めとは神のことばの真意を悟ることです。神とともに多くの時間を過ごして、神の語ることばの真意を悟って、その地において神様の真意を表現し、分かち合っていく務めなんですね。さらに「守る」という務めが加わるということは王的務めのことで、その祭司の務めは権威を与えられてなしていく、権威も与えられているということを表しています。やがて、初代教会がそうなりますね。神のそばにいて、イェシュアの語る御国の福音をよく理解し、悟って、それを神殿ユダヤ教、律法主義の中で伝えていく、表現していくためには上からの聖霊の力が必要でしたね。それが王的権威です。祭司の務めは、内側では神のことばの真意をしっかり悟ることが必要です。しかしそれだけでは戦うことはできません。それを証ししていくための力が必要なので、外から神の力が加えられるという形になります。それがこの創世記の2章15節に預言されているということですね。創世記は、これから展開していく神様のご計画において、イスラエルの民の存在意義が預言的に記されているのです。イスラエルがエジプトから出てきたその目的は「祭司の務めをするため」ですよ。

【新改訳2017】出エジプト記19章6節

あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

2「芯切りばさみ」の奥義 ③

●祭司の務めは、罪を犯してエデンの園を追い出された後も、変わることなく継続されていきます。それが「神である主は、人をエデンの園から追い出し(「シャーラハ」=遣わし)、人が自分が取り出された「ラーカハ」大地を耕すようにされた」(創3:23)の意味です。つまり、大地で神を表現していく使命です。

罪を犯した人が遣わされるのです。このあと、24節では実際に追い出されてしますのですけれど。それは「ガーラシュ」という違うことばが使われています。このことばは、バビロン捕囚の時、イスラエルの民がエルサレムから追い出されるというところに使われています。しかしそれは彼らに平安と将来を与えるためのものですよね。バビロンに言って、神様を見出させるための「追い出し」ですから、決してさばきではないです。福音なんですよ。やがて70年経つと彼らは戻ってきますね。神様のみこころを知って、神様を探し求めて、その結果、トーラーライフスタイルを築いて帰ってきますね。

2「芯切りばさみ」の奥義 ④

●祭司の務めは、罪を犯してエデンの園を追い出された後も、変わることなく継続されていきます。それが「神である主は、人をエデンの園から追い出し(「シャーラハ」=遣わし)、人が自分が取り出された(「ラーカハ」)大地を耕すようにされた」(創3:23)の意味です。つまり、大地で神を表現していく使命です。

●祭司の務めは永遠に変わりません。その系列がアダムからアベルへ、セツからノアへ、ノアからセムへ、セムからアブラハム・イサク・ヤコブへ、そしてレビ族のモーセ、アロン、ダビデ、イェシュアへと継続され、新約に至ってはすべてのイェシュアの弟子たちへと受け継がれています。そして最後の、といってもすでに完成していますが、「新しいエルサレム」においては、そこに住むすべての者が「神のしもべ」として「み顔を仰ぎ見る」(顔と顔を合わせる)者となるのです。このように最初のアダムが造られた時から、人は祭司としての務めが与えられているのです。その祭司としての務めとして、芯切りばさみで、その光を絶えず燃やすために、黒くなった部分をを取り除いたり、芯を整えたりするということが委ねられているわけですね。「神様の真意を知る」という務めは御使いには与えられていなかったのではないですか。御使いの長であるルシファーがそのことを妬まないはずがありません。新しいエルサレムの直前まで、このルシファーが敵意をもって、人に与えられたこの祭司の務めをことごとく妨害することになるのですが、それも神様の定めです。つまりそのことは神にとって想定内なのです。サタンが妨害することをとおして神様のご計画が実現するという計画を神様は持っておられました。

2「芯切りばさみ」の奥義 ④

【新改訳2017】詩篇27篇4節

一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。

私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。

主の麗しさに目を注ぎ そのも宮で思いを巡らすために。

●この詩篇の作者はダビデです。彼は一つのことを主体的に願った。「願う」ということは自ら主体的に自発的に願い求めたということです。そうでなければそれを得ることはできないことを彼は知っていたからです。「一つのこと」は全体の中のいちばん大事なこと。「エハード」です。創世記の第一日も、「エハード」一つの日のことで、光を呼び出して闇を分けるということは神様の計画の全体、大きなフォルダーを意味します。その中にいろんなものが詰め込まれているというような意味合いです。ですから、「一つのこと」とは全体的なことでもあるし、優先的なことでもあるし、それがなかったらすべてが無駄になるような、そういう位置づけにあるものです。ダビデが生涯願ったひとつのこととは「主の家に住むこと」でした。これが祭司の務めなんですね。主の家に住んで主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすことは祭司の務めで、ダビデはそれをしているのです。ダビデは「王」でもあり、使徒ペテロはダビデのことを「預言者」とも言っています。ダビデがイスラエルの最も偉大な王であり、預言者であったのは、彼が何よりも祭司の務めをしていたからです。祭司の務めはすべての務めにおいて、最も優先的な位置に置かれます。

一つの例として、イスラエルに王制が確立されて最初の王となったサウルは、祭司の務め、つまり「神様のみこころを聞く、神様の真意を知る、そしてそれに従う」ということにおいて弱かったのです。その一つが、神様が「アマレクを聖絶せよ」と言われたのに、サウルは聖絶しないで、良いものを自分のものにして価値のないものだけを殺しました。旧約聖書で「聖絶」とは神への礼拝行為です。神様にすべてを献げるという行為なんですね。サウルは良いものを自分のものにした時点でアウトですね。祭司としてアウトですね。第一のものより第ニのものが優れているというのは、そのあと次の王としてダビデが出てきますね。ダビデはそういう意味でサウロよりも優った祭司であったわけです。

●神の御子イェシュアの公生涯がなぜ三十歳から始まったのでしょうか。十二歳で十分な知恵が与えられていたにもかかわらず、なぜそれから十八年もの歳月を必要とされたのでしょうか。それは「祭司となるための資格」と関係がありました。イェシュアこそ、いつも御父の懐にいて、御父と一体となっていて、そして御父のみこころを悟り、それを地において表現していった祭司ですよね。祭司であるがゆえに預言者ともなります。祭司であるがゆえに、やがて王となることができるわけです。祭司であるということはすごく重要なことなんですね。

2「芯切りばさみ」の奥義 ⑤

●話を少し戻します。神がイスラエルの民をエジプトから救い出された目的は、イスラエルの民全体を「祭司の王国」にするためでした(出19:6)。これは、人を造られた時点で、神様がそのように設定していました。イスラエルが歴史の中で起こってきた時にこの民が全世界の「祭司の王国」という位置づけになるわけですね。ところが、「金の子牛」(正解には「鋳物の子牛」=偶像)を拝んでしまったことから(出32:1~6)、イスラエルの民の大部分は祭司としての務めを喪失してしまったのです。そのしるしが三千人の死です。その結果、アロンとその息子たちを除くレビ族が祭司の務めを果たすようになったのでした。

●しかし新約の教会に「聖霊によるバプテスマ」が注がれたその日に、ペテロの語ったメッセージによって「三千人」ほどが弟子とされました(使徒2:41)。これは神の民が祭司として回復されたことを示す象徴的な出来事でした。新たに祭司の王国が回復されたという意味でもありますね。十二使徒たちも、後に加わるパウロも祭司です(ロマ15:16)。最初の殉教者ステパノは信仰と聖霊に満たされた人であり、彼は何よりも祭司の務めを果たした人でした。初代教会はこのような真の祭司たちを産み出していったのです。そして繰り返し、キリスト者が主の祭司、王なる祭司であるという言及が聖書の中にあるにもかかわらず、私たちはそれになかなか気づきません。何故でしょうか。おそらくそれは教えられていないからだと思いますけれど。

2「芯切りばさみ」の奥義 ⑥

パウロは自分のことをどう言っていたか見てみましょう。

【新改訳2017】ローマ人への手紙15章16節

異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。

私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。

それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に選ばれるささげ者となるためです。

●使徒パウロは自分が異邦人のためにキリストに「仕える者となった」ことを、「神の福音をもって、祭司の務めを果たしている」と言い換えています。ここでの「仕える」をヘブル語訳は「メシャーレート」と訳しています。その語源の「シャーラット」は「仕える、務める、礼拝する」という祭司用語です。祭司の務めとは、多くの時間を神と共に過ごし、神のことばに親しんで神のいのちを享受し、それを分かち与える務めです。まず自分が神のそばにいなければなりませんね。そして、神様の語ることばの真意を受け取ることが不可欠ですね。この務めのために、パウロは「神の奥義としてのキリスト」を求め続け、霊の目が開かれ続けました。そしてなおも「キリストの奥義」が開かれるように祈ってほしいと語っているのです(コロサイ4:3)。コロサイ書が書かれたのはパウロの晩年の頃ですけれど、それでもなおもっと奥義を知ることができるように祈ってほしいと書いているのですよ。パウロほど啓示された人は他にいないのですけれど。ある意味では神の奥義を完成させたと言えるひ人でもあります。そのパウロがもっと開かれるようにと言っています。それは彼が祭司として主を求めた人だったからですね。そして、次のようにも言っています。

2「芯切りばさみ」の奥義 ⑦

【新改訳2017】コロサイ書4章6節

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。

そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかがわかります。

※原文で読むなら、「あなたがたのことばが、いつも魅力的で、塩で味つけられたものであるようにしなさい。そうすれば、あなたがたは一人一人に対して、どのように答えるべきかがわかります」となっています。これはどういうことでしょうか。「塩で味つけられたもの」とは「キリストの奥義」のことで、それは「人の霊に喜びを与える魅力的なもの」です。人のたましいに喜びを与えるものは塩ではないですよ。別のものです。神が喜ばせてくださるのは私たちの霊です。それが本当にその人を生かすものになっていくのです。「塩」ということば自体が祭司用語です。聖書の中に「塩の契約」(民18:19、Ⅱ歴13:5)があります。これは神が祭司と結んだ「永遠の契約」なのです。それは神の秘密に触れる者との契約なのです。神の奥義に触れるとき、私たちの霊は喜びとして感じるのです。そしてそれは与え続けることで、より増していくものなのです。それが「塩の契約」の骨頂です。ですから、パウロは「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということばを、イェシュアご自身が語られたことばとして伝えたのです(使徒20:35)。つまり、祭司として神様から与えられたものを分かち合うことを通して自分がさらに増し加えられていくということを言っているわけです。聖書には「受けるよりも与えるほうが幸いである」とイェシュアが言ったことはどこにも書いていないのですが、イェシュアの生き方そのものがそうでしたね。パウロはイェシュアを見倣って、隠されたものを惜しみなく分かち合っていった人なんですよ。無代価で与え続けていきました。

2「芯切りばさみ」の奥義 ⑧

●このことば何時、誰に語ったものでしょうか。これはエペソの教会の長老たちに対して語ったパウロの訣別説教の中にあります。ちなみに、パウロは三年の間、エペソにおいて語った「御国の福音」を「神のご計画全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」と語っています。「余すところなく」とは怯むことなく、人に忖度することなく、ご機嫌を伺うことなく伝えたということです。そうであるならば、私たちも祭司としての務めを果たせるように祈るべきではないでしょうか。

●以下の箇所にも、新約の神の民が祭司、王なる祭司(=権威ある祭司、神の力に支えられた祭司)、聖なる祭司であることが述べられています。ですから、神のみこころとして、明確に覚えておきましょう。

①Ⅰペテロの手紙2章5,9節 ②ヨハネの黙示録1章5~6節 

③ヨハネの黙示録20章6節 ④「あなたがたは世の光・地の塩」も祭司用語。

●このようにして、聖書全体が「祭司の務めの書」と言うことができるのです。

イェシュアは祭司の務めをして御国の福音を語りました。山上の説教もそうです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて・・・与えられます」と保証しているのは地の塩である祭司に対するものです。これは祭司の契約、塩の契約です。あなたがたは地の塩ですというのは、あなたがたは祭司として塩の契約に与っているのだから、その務めをしなさい。そうするならばわたしがあなたのすべてを保証しますという約束なんですね。祭司と結ぶ塩の契約は永遠の契約です。ですから、私たちは生存と防衛の保証を自ら積み上げていくのではなく、神様が必要のすべてを与えてくださるということで、祭司としての務めに集中できるように、そういう気持ちのある者に神様はそれを保証するというのが「塩の契約」なのです。すごいですね。

2「芯切り」ばさみ」の奥義 ⑨

●ここまで話してきたことが「芯切りばさみ」に隠された意味です。今日、多くのクリスチャンが輝いていないとすれば、それは焦げた芯を切らずにいるからです。焦げた芯は切り取らねばなりません。「芯切りばさみ」を用いることができるのは祭司のみです。祭司の務めは「ともしびを灯すこと」にあります。それは「アーモンドの花」と同様に、復活のいのちを輝かし続けることなのです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章16節

いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、わたしは自分の努力したことが無駄ではなく、

苦労したことも無駄ではなかったことを、キリストの日に誇ることが

できます(ヘブル11章13~16節も参照)。

●この働きを通して、キリストに隠されている奥義が多く開かれることになります。その目的はひとえにキリストと一つになるためです。幕屋を学ぶ意義はこの目的のためにあります。ちなみに、パウロのコロサイ人への手紙は「神の奥義としてのキリスト」をテーマとする重要な書簡と言えます。

2「芯切りばさみ」の奥義 ⑩

●多くのクリスチャンは、キリストを受け入れるとはただキリストを信じることであると思っています。確かに、神の御子が私たちを愛し、私たちのために死なれた救い主であることを信じるなら救われます。しかし、キリストを受け入れるとは、単に救われる以上の、多くのことを含んでいます。キリストのうちには多くの世代にわたって隠されていた奥義があり、その奥義があり、その奥義がいかに栄光に富んだものかを、教会は余すところなく(怯むことなく、忖度することなく)伝える使命があるのです。主の祭司になるということは、奥義である神の知恵と知識の富(宝)を分かち与える者となることです。パウロは以下のように言っています。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙2章2~3節

2私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。

3このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。

これを知るためには聖書を聖書によって解釈することが絶対に必要だと思いますね。

3「芯取りばさみ」(火皿)の奥義

●「芯取り皿」も「火皿」も、同じく「マフター」です。

「芯取り皿」は焦げた芯を切り取ったものを入れておく純金の容器です。ところが「火皿」は祭壇から取った燃えさしを置く容器で、青銅で作られています。「芯取り皿」は祭司専用ですが、「火皿」は祭司とレビ人兼用です。

●「マフター」の語源「ハーター」は「火を集める」と言う意味です。これは神のみこころにかなったものでなければ、神のさばきは免れません。火であれば何でもいいかというとそうではないことが次の箇所でわかります。

【新改訳2017】レビ記10章1節

さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に光を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。

このことで、彼らは火で焼き殺されてしまいます。それを知ったアロンは、神様の厳粛なことばを受け入れざるを得ませんでしたね。

●「異なる火」とは、全焼のささげ物の祭壇以外の火のことです。祭壇の火は天からのものです。その火種をもって荒野を移動していたのです。「火」は「聖霊」の象徴です。「天からの火」つまり「聖霊」によって燃やされたものでなければ神は受け入れることはできないのです。神の世界とこの世の世界とがそこで完全に別れています。私たちの頑張りや努力や理性の火とか文明の火とかは神様には通用しないわけです。

4「ともしびを整える」

●芯を切ってともしびを整えるときには油も供給されます。もし供給されないとしたら、メノーラーは燃えて光を放つことはできません。芯は植物から作られています。油(オリーブ油)は聖霊の象徴です。芯は人性を表し、油が神性を表すとするなら、神性によって人性が燃やされるとき、光は輝きを放つことを意味します。私たちのたましいの部分が十字架につけられて燃やされて、取り除かれていくときに、より光が輝きを放つことを意味するのではないでしょうか。芯は常に黒くなってくる、つまり人性が入ってくるので、それは常に十字架によって砕かれていくことが必要ですね。それを取り除く作業が祭司のすることなのです。祭司自身もそういう部分を常に見張って取り除くということが必要だと思います。これはパウロの言う「外なる人は衰えても、内なる人は日々新にされる」(Ⅱコリ4:16)たとえと言えます。

●また「ともしびを整える時」は「朝ごとに」、そして「夕暮れに」です。

朝「ボーケル」と夕に祭司は必ず香をたいて、煙を立ち上らせるのです。その行為は「神への祈り」を意味します。これは代々にわたる祭司の務めであり、主へのささげ物なのです。朝と夕ということは一日中ずっとともしびがあるということですね。とぎれることなく光が常にあるということです。常にともしびを整えることが祭司の務めです。

【新改訳2017】出エジプト記30章7~8節

7アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。

8アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。

これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。

メノーラーが整えられていなければ、真っ暗ですから祈りをすることもパンを食べることもできませんね。ですから、ともしびを整えることは聖所のすべてのはたらきの大前提です。

 

今日のまとめ

●メノーラーの「光」は光源としての光ではありません。その光は「神のご計画とみこころ、みむねと目的」を表象するものです。トーフーヴァーボーフーの中から神様は「光」(神のご計画とみこころ、みむねと目的)を呼び出して、新しく神と人が共に住む家を再創造していくわけですね。今回は、そのメノーラーの付属品である「芯切りばさみ」と「芯取り皿」(あるいは「火皿」)の奥義について学びました。焦げた芯を切り取り、かつ油を補給することは、ともしびを整えて光―つまり神のご計画とみこころ、みむね(神様の喜び)と目的(すべてキリストのもとに一つになるという)―を輝かせるために必要不可欠なことです。この務めはすべて「王なる祭司の務め」なのです。すごい重要なことではないですか。

●今日の話から何を教えられ、また感じ取ったでしょうか。各自、思うところを分かち合ってください。

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