打破しなくてはならないものは睡眠ではない | 渡瀬悠宇 OFFICIAL BLOG
たまには、少々真面目にお話を。

「眠眠打破」には、昔はよくお世話になった。
ユンケル辺りと並ぶ、漫画家にはお馴染みの眠気覚ましのドリンクだ。
(もう10年ほどご無沙汰だが)

先程、部屋の《桜の盆栽》の前に暫く佇んだ。
昨年、アシさんが私の誕生日にくれた鉢。
自分でも以前一度購入し、その後真夏日や引っ越しなどで、死なせてしまったことがあり、大変可哀想なことをして、悔やんだ。


だから、今度こそと思ったが、丁度入院する前、過労から倒れている日が多くなった、あの昨年の猛暑に、うっかり水やりを忘れてしまった。
青々した葉は、枯れ落ちた。

アシさんにも申し訳ないが、桜そのものにはもっと申し訳ない。

それから、気をつけて水やりをしたものの、桜はうんともすんとも言わないもので、今は素人目では生死は分からない。


桜がその冬が寒くなければ綺麗に咲かない、というのはもう有名だと思う。
あの可憐な薄紅も、花弁からではなく、樹液から採れる、ということも。
私は「櫻狩り」という作品を描いて、その関連オフィシャル本などこの数年、色々と個人誌を出す機会があった。

その集大成のコメンタリー本にも「蕾」と名付けだのだけど、
実際にはその桜の蕾になるには、
「花芽」という状態があるそうだ。
その「花芽」は秋頃休眠してしまう。

冬眠ならぬ、秋眠だ。
実は、その「花芽」は、今まさに私達が味わっているこの冬の寒さの厳しさがなくては、目覚めないらしい。

凍てつく寒さの中で目覚め、再び芽生え、それが蕾となり、あの満開の桜と咲くことが出来る。

私達の前に燦然と咲き誇るあの日本の国花は、決して甘くない厳しい時を越えてこそなのだ、と、改めて考えながら、先程の枝を眺めていた。


今日、母の病院に付き添ったが、
血液検査で出た肝臓の数値は、昨年夏から落ち始め、今日、一番悪化していた。

年末年始側にいて、励まして漢方薬も与え、それこそ色んなものを与えて、身体をあちこちさすって温めた。
大好きな映画も連れて行き、まるで幼子のように、歩くときも眠るときも寄り添っていた。

けれど、現実は、知ってはいるが厳しい。
私がしたことなんぞ、極寒に多少の湯を注ぎ込んだようなものだ。

お腹は腹水で妊婦のように膨れ上がり、数年前、大阪にいたときの「胸水」で臨月のようだった、というのを言葉でしか聞いてなかったが、それを目の当たりにしたようだった。

まだ食欲もある。
笑って話せる。
歩ける。
このうちに、入院して適切な処置をすることにした。
重篤ではない。まだ大丈夫。

そして、私はといえば、夢に毎日見るほど漫画が描きたくて原稿が触りたくて(これは物作りの因果なサガだ)
…正直確かにそろそろ入らねば大変になるのは目に見えているので、また仕事場に、その母を置いて、1人で、戻った。

「じゃあ、行ってくる!また電話するな!」
私はいつも別れ際笑って玄関で言う。
力あるときはそこまで見送ってくれる母は「ありがとう」と言いながらも、いつも決して私の顔から目をそらして見ない。

今日もそうだった。
その気持ちを思う。
諸事情が重なって、電車で30分ほど離れた所で住んでいて、未だ一緒に住める目処は立っていない。

エレベーターを押して、乗り込んだ途端に涙が後から後から溢れた。

電車の中でも、その後、薬を貰いに寄ったクリニックの待合室でも、なんども悟られないよう涙を飲み込んだ。

仕事場に戻って、母の履いていたスリッパを片付けた。
人の脱ぎ残したスリッパを見ると、切ない、といつも思う。

少しウロウロと歩き回り、机の原稿が目に入った途端に、堰を切ったように、声を上げて泣いた。
止まらなかった。

それこそ幼児のように暫く泣き続けた。

母の容態もだが、こんなときにも描きたがる自分のエゴにも涙が出た。
もっともクリニックの先生曰わく「エゴではなく、無理を生じればそれは《ただの自己犠牲》になるので、そこまでしたなら充分。自分を責める必要はないよ」だったが。

そのあと、目を真っ赤にして眺めていた桜の枝なのだ。

いわば、自分の人生も、まだまだ半分程度の若輩とはいえ、何度も極寒に晒された。
そのたびに泣いた。
苦しんだ。
でも、堪えて乗り越えたそれらは、今の私には「思い出」でこそあれ、もう冬の寒さとしては大したものではなくなっている。

今も、また恒例の冬が来ただけなのだ。

花芽が春に蕾を開かせるためには、寧ろ凍えよ、と桜の樹木は今も堂々と晒されているはずだ。

格好良すぎる。
咲くときも散る時までも人の心を魅了する。
好きになったのは作品の影響だが、今は本当に大好きだ。



そう思うと、この自分の冬も、また越えるしかない。

今までもそうしてきたからこそ、
越えた時を経験したからこそ、それを私はそのまま作品として創作し続けてるんじゃないのか。

だから何度涙を飲んでも、描きたくてしょうがないのだ。
描ける限り、描かせて欲しいと思う。
色んな冬を戦う人の励みの何かにでもなれるなら。


寒さの中で花芽が目覚めること。

それこそ「眠眠打破」ならぬ、
「休眠打破」と呼ぶらしい。


苦しい冬を、厳しい寒さを打破して、
春を迎えて花を見たい。

そういえば、私の誕生日は3月で、桃の節句から、桜を迎える「春の始まり」の月だ。



この枝も生きている、と思う。
隣の造花とは比べ物にならない、本物の美しさを、今年も見たいと思う。



乗り越えた!!
と絶対に、今度も母も私も笑ってやる。
人生は「休眠打破」だ。