雨音の囁き

 

 秋の夜、しとしとと降り続く雨の音が、二人の間に静寂を包んでいた。

「どうして、こんな時間に呼んだの?」

電話一本で駆けつけた圭佑は、傘を閉じながら問いかけた。

 

玄関先に立つ香代子は、濡れた髪を気にする様子もなく、ただ、かすかに微笑んだだけだった。              

   
「ただ……、会いたかったの。」 

              
その言葉は、まるで雨の音に溶けて消えてしまいそうなほど儚かった。

圭佑はため息をつき、香代子の肩にそっとジャケットをかけた。

 

「濡れるから、中に入れてよ。」

 香代子の部屋に足を踏み入れると、どこか甘くて懐かしい香りが漂っていた。

ラベンダーと白檀がほんのり混ざり合う、あの匂い、それは二人が付き合っていた頃、香代子が好んで使っていた香りだった。

「覚えてる?」

 

香代子は、ソファの隅に座りながら問いかけた。

「忘れるわけ、ないよ。」

 

圭佑は小さく笑ったが、その胸には複雑な感情が渦巻いていた。

二人は一年近くも会っていなかった。突然の別れを告げたのは香代子の方だった。

理由もよくわからないまま、圭佑はただ「そうするべきなんだろう」と納得しようとしていた。それでも、心のどこかでは、香代子を忘れられなかった。

「ねぇ、今でも私のこと、少しでも、思い出したりする?」

香代子の声には、どこか切なさがにじんでいた。

圭佑は正直にうなずいた。

 

「ああ!、もちろん。」

 香代子は立ち上がり、圭佑の前にゆっくり歩み寄った。

               

雨音だけが二人の間に残る。 

 

香代子の手が圭佑のシャツの袖にふれると、冷たい指先が心臓に触れたような気がした。

「ねぇ……、あのとき、あなたと別れたのは、間違いだったのかもしれない。」

香代子は、ためらうように言葉を紡いだ。

「でも、今さら戻れるわけじゃないよな?」

 

圭佑は、香代子の瞳を見つめながら問いかけた。

香代子は一瞬だけ微笑んだ後、そっと啓介の胸に額を寄せた。

 

「わかってる。だけど、今だけでいい。 今夜だけ、私のそばにいてくれる?」

圭佑は言葉を失い、ただ香代子を抱きしめた。

 

柔らかな髪が啓介の首筋にふれ、心の奥にしまい込んだ想いが、一気に溢れ出したような気がした。

 二人は、そのまま静かにキスを交わした。雨音がまるで祝福するように、窓を叩いていた。

言葉では届かない感情が、触れるたびに伝わっていく。

 

二人は、過去も未来も忘れ、ただ、今この瞬間だけに身を委ねた。   

その夜、二人は再び心を通わせたけれど、明日になれば、またそれぞれの人生に戻ることをお互い理解していた。

 朝日が昇る頃、圭佑は静かに部屋を後にした。玄関を閉める直前、圭佑は振り返って最後に香代子を見つめた。

「ありがとう。君に会えてよかった。」

香代子も微笑んだが、何も言わなかった。

ただ、その表情には確かに何かが癒えたような安堵が漂っていた。

 数日後、圭佑は香代子の香りをもう一度感じたいと思い、香代子が使っていた香水を探そうとした。しかし、どの店を訪ねても、その香水は見つからなかった。

ある店の店員が言った。「その香りは、もう何年も前に廃盤になっているんですよ。」

圭佑は少し驚いたが、不思議と納得した。

あの夜の香りは、もう一度だけ訪れた香代子との奇跡だったのだ。

 

終わり