久しぶりの曇天、

このところの仕事のカオスの合間を縫って、最終日、滑り込みで国立新美術館のDOMANI展をみる。

 

印象に残ったのは、佐藤雅晴さんの作品。

他の作品と比べてダントツでいろんな余韻が得られた。この人の作品、もっと知りたいと思ったら、昨年亡くなってしまっていたなんて。。。

 

本展に限ったことか分からないけれど、

作品の横に添えられる「説明」がやや過剰で耳障りだと思ってしまった。作品の意図や、そこに込めた思いについて、作家自身の語りという感じで言葉に表現されているもので、「取っつきにくい」と思われがちなモダンアートには、そうしたガイドが有用かもしれない。

 

でも、なんだか「種明かし」のようで、

あるいは、作家がオーディエンスに対して「私の作品はこういう風に理解して欲しい」とアピールすることで、オーディエンスが自由に作品を眺め解釈の冒険や反芻の余白を奪ってしまいかねないとも思えて。

 

グーグル先生が席捲する今どき、すぐに「解答」がパッと得られる「分かりやすい」作品が好まれるのだとは思う。でも、あっさり「解答」が分かってしまうと、例えば5年後、10年後、あるいは何かの契機に、「そういえば、もう一回、またあの作品を見てみたい」ということにはならない気がする。時代とともに、あるいは自分自身の人生経験などとともに、あるときふと、それまで見えなかったものが見えてくるような作品が、文学もそうだけど、味わい深く私が好きなアートかな。

 

作家は思想家でもあって、言語によるメッセージの発信に長けている人は結構多いと思う。作品と別の場所で、作品のことも含めていろんなことを語ったり文章化するのは良いと思う。だけど、作品の隣に言葉を載せすぎてしまうのは危険ではないかしら。自分の作品やアーティストとしての生き方そのものに真摯で自信があれば、オーディエンスに理解されるだろうかと不安に思う必要はなく、堂々と作品を見せればいいだけだと思うのだが。

 

。。。と思ったのは、私だけかしら。。。

いろんな人に興味を持ってもらいたいという思いからくる「ガイド」との線引き、難しいところだとは思うけど、「ネタバレ」レベルはあかんよーと。まあ、次からできるだけそれを見ないようにしなければいいのよね。何か手がかりが欲しいと思うから、つい見ちゃうのだけど。