三日目は、朝もやが煙る深緑の山並みを堪能しながらたっぷりと温泉朝湯に浸かりエネルギーは十分に回復、八時二十分にホテルを後にし今日のコースは角館・田沢湖・八幡平・十和田湖・奥入瀬渓流を経由して葛巻町を目指す初めての道路ばかりですが、まず角館町の「武家屋敷通り」へ向かいました。

 

 私は、二十年前に一度きているが老妻は初めてなので、まだ見ぬ歴史感溢れる武家屋敷に期待が増すばかりで、九時前には武家屋敷エリアに隣接する「桜並木」駐車場へ到着、桜の季節は終わったが早速隣接する「桧木内川」の桜堤の桜トンネルを散策、ブラブラと武家屋敷へ歩いていると「人力車」の車夫に声をかけられ、口開けとの事なので老妻と上級節の屋敷が連なるコース(三千円)に乗車。

 

 銀杏や樫の大木が連なり、古風な生垣で囲まれた石黒家や青柳家など江戸時代の歴史と生活感が漂う景観と車夫の案内も適格で老妻も感激、その後「樺細工伝承館「でさくらの樹皮を巧みに利用する伝統工芸技術を見学しました。

 

 なぜ、角館町は武家屋敷が残ったのでしょうか。 戊辰戦争のおり東北六県の各藩は会津藩を中心に「奥羽越列藩同盟」を結び二本松・白石・仙台・南部藩を始め小藩もこぞって新政府軍に挑んだが、武運拙く藩によっては塗炭の苦しみを味わいました。 その中、角館は佐竹秋田藩に属し、佐竹藩は新政府軍にいち早く恭順をした関係で戦火をまぬがれましたが、隣の南部藩は会津への信義に基づき「秋田討ち入り」の干戈を交えました。 そのような明治維新時の歴史を感じながら田沢湖へ向かいました。

 

 田沢湖は,深い山々に囲まれた水深423mの日本一を誇る湖で、その水辺に立つのが

「その昔、この近辺の「たつこ姫」が美しさを追い求め湖に入水、龍になったという伝説にもとづき作られたのが金色に輝く「たつこ像」です。

 ここのドライブインの駐車場料金は二百円を店に支払、その代わりにトイレは無料、お土産を買うと二百円引きとなっており、初めての面白いシステムを経験しました。 また、湖畔には餌付けした「ウグイ」が群れをなしておりその数にちょっときみ悪さを感じました。

 

 この頃から青空に雲がかかり始め、田沢湖畔周遊道路を抜け玉川が流れ込む「秋扇湖」や「宝仙湖」など八幡平へ向かう時には雨が降り始め、細い山道のくねくね道路と何か所も有る道路工事の一方通行信号にすこし「いらいら」したが、無事八幡平を抜け鹿角市を経由し十和田湖畔の遊覧船乗り場についたのは十二時を回っていた。

 

 湖畔の遊覧船の切符売り場の二階がレストランになっていたが混雑しており、腹は減るは、乗船までは二十五分、しかたなく切符を見せて一番早くできるカレーとカレーうどんを注文、なんとか乗船に間に合った。

 

 船から乙女の像や奇岩を眺めているうちに、エンジンの単調な音が眠気をもよおし、つい「うとうと」していると、老妻の「着いたよ」の声で我に返った。 下船後湖畔の散策路を「乙女の像」まで歩き、砂地なども有り二人ともちょっと息切れ状態となった。

 

 私が十和田湖を知ったのは小学生の時で、漫画本の伝記で「ヒメマスの養殖に成功した、和井内貞行」の苦難の養殖の成功の物語だったと記憶している。

 それまでは、魚の住まない無機質な湖だったが、その成功で貧困で苦しむ村人を救い、地場産業としてしっかり根付き今日にいたっております。

 

 その後奥入瀬渓流を何度か休憩しながら下り、この道中のただ一か所の石戸休憩所に寄りましたが、渓流沿いの静寂な木立ちと岩に砕ける水の音とは真逆の中国人の団体でごった返しの状況で、トイレも土産コーナーもあのかん高い声で溢れ、お土産を買うのも一苦労であった。

 

 その後一般道路で十和田市から八戸へ向かい、八戸ICから八戸自動車道で盛岡方面に向かい、九戸ICからのんびりした田舎道を辿り目的地の葛巻町の宿泊施設グリーンテージに五時三十分に到着しました。 葛巻町は、盛岡市と宮古市の中間に位置し、人口は七五千人だが牛は七千九百頭の酪農と山ぶどうwine、それと風力発電の元気な町です。

 

 茨城県人にはあまり馴染みのない町に訪れたワケは次回で報告しますが、このグリーンテージは町営の宿泊施設ですが、サッカー場や陸上競技場、子供たちの遊具施設、芝広場などが併設される、葛巻町の町民のふれあい交流の場です。

 温泉施設も充実し早速電気風呂で疲れを癒しました。

 

          本日の走行距離 295km      三日計 937km