以前、ボストンへ留学した当時のことを書きましたが、今日はその時に指揮者について感じたことを書きます。

時々、友人たちに「指揮者は、オーケストラにおいてどのような役割を果たしているのか?」というような質問をされることがあります。

「オーケストラのメンバーは、ほとんど譜面を見ていて、時々指揮者を見るだけだし、指揮者がいなくても演奏できるのでは?」などと言う人もいます。実は、私もボストンへ行くまでは、指揮者がどの程度オーケストラをコントロールできるものか、どの位大切な存在なのかよく理解していませんでした。

小澤征爾さんの指揮をまじかに見るようになり、彼が書いた本やその他のクラシック系のエッセイなどを読んでいくうちに指揮するという事はどのようなことかが、段々と解ってきました。

指揮者の仕事とは、演奏する楽曲の隅々まで作曲家が書いたスコアを研究し、どのように演奏するかを事前に考え、限られた時間のリハーサルの中で自分なりの演奏解釈を的確に団員に伝え、演奏法にも細かい指示を与えていく能力が要求されます。

繰り返し演奏されてきたクラシックの曲を聴衆に対し常に新鮮に聞かせるのは、簡単なことではありません。また、少なくとも40数名、多い時ですと100名近くいる団員を前にして自分の意思を伝えコントロールしていくためには、相当な音楽的才能、実力、精神力が要求されます。

私の印象では小澤さんは、団員からとても信頼されていましたし、市民からも絶大な人気がありました。例えば、ティンパニー奏者は、演奏している時、獲物を前にした豹のように小澤さんを食い入る様に見つめ、小澤さんの指揮と寸分の狂いのないタイミングで叩いているのが良く伝わってきました。小澤さんが指揮をしている時の指揮者とオケの関係を毎週のように見聞きしていると、ゲスト・コンダクターが来た時の演奏との比較が出来てそれもまた興味深く勉強になりました。

小澤さんほど明解な指揮をする人は少ないと感じましたが、時には明解過ぎないほうが、良い演奏になる場合もあるようで、指揮の難しさ、奥深さを感じさせられたこともあります。

また、あるときは、気がついてみると、団員の誰一人としてその指揮者を見ていないことがあり(要するに、完全に無視されていたのです。)、前述したティンパニー奏者などは、「お前なんかいなくても良い。」とでも言わんばかりの態度でわざとそっぽを向きながら演奏していました。

それでもその指揮者は、汗だくになって最後まで振っていましたが、指揮者としてこれほどの屈辱はないでしょう。本当に厳しい世界です。理由は、判りませんが彼の才能が及ばなかったせいか、性格的に団員に嫌われたか、どちらにしても、優秀なオケは指揮者がいなくてもある程度は演奏できるということや、ただその場合は、あまり良い演奏にはなり得ないであろうと言うことも分かりました。

やはり、カリスマ性のある指揮者に統率されながら、団員の気持ちがひとつになって演奏した時、ミューズが舞い降りてくるのだと思います。

ゲスト・コンダクターでも正反対の例もあります。曲目は、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の第2組曲でした。夜明けの部分の演奏が始まるとあまりの美しさに団員たちの表情が恍惚感いっぱいになっていくのが判りました。(私の席は常にステージ脇の2階席だったので、団員たちや指揮者の表情が良く見えたのです。)

あるヴァイオリン奏者は、隣の奏者に小声で「なんて美しいのでしょう!」とささやきながら弾いているようにも見えました。小澤さんの指揮法とは、対照的な上に引っ張り挙げるようなイメージの指揮に完全にコントロールされながらなんともいえない微妙なうねりのあるリズムをかもし出し天界のような美しい世界をステージ上に作り上げました。悲しみや喜びを超越した感動の涙が私の目から溢れました。

音楽を聴いてあの時のような涙を流したのはその時一回限りです。

指揮者によってこうも変わるのかという事をまざまざと感じさせられたその演奏を指揮したのは、まだあまり有名でない頃のシャルル・デュトアでした。