感謝をすることがなにより大切―理性の質が問われる | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察をコンパスに、道中で得た『叡智』を分かちあっています。

※誠に申し訳ございません。記事をUPした後から、重要なことを下記忘れていたことに気づきまして、加筆しています。先に「いいね」を押してくださった方々にお詫び申し上げます。

~。~。~。

 

こんにちは。
時折空が高くなるのを見て、秋になってきたのを感じています。
しかし、自然農の師匠や届くお野菜や畑で育っているお野菜は、まだまだ夏野菜が主流です。
トマトは、実は苗を畑に植えたのが遅かったこともあり、今になって実をたくさんつけ始めています。
今年は、私自身がはじめて種から育てたトマトや甘長唐辛子、万願寺、パプリカなどの苗が育ってくれて、とても楽しみです。

さて、今日の話題は、そういうことに絡んでいますが、最近私の周りでいろいろなことが起こったので、そのことも絡めて一つの話題が出来ましたので、みなさまにも、私自身にとっても有益だった学びを分かち合えればと思います。

どうぞお立ち寄りください。

🌿持っている理性の質が問われる🌿

いきなりですが、私や先輩の、目に見えない師匠から、20年以上前に伝えられていたメッセージがあるので、それをお伝えします。

「真理を学ぶ前(宇宙人になろうとする前)に、ちゃんと人間を生きなさい」

それは、目の前のことに気づかず、感謝もできないのに、真理の世界(スピリチュアルの世界)を追いかけても、現実とは分離してしまいますよ、ということでした。
また、何か特別なことをして、時代の先取りをしているように見えても、実はそれを、周囲を裁く武器にすることでかえって現実と分離してしまうこともある、ということもあります。

私は、10年前に統合失調症になった時に、真理を学びなおしました。
それまでも学んではいましたが、10年ちょっと前にACIMで学びなおすことで、自分が「バラバラのゴールをもっている」ということに気づかされました。
また、「理性がぶっ飛んでいた」ということが、目の前に現れまして、それも気づかされ、修正する機会に恵まれました。
しかし、そのことを今度は、「断罪」しすぎていたので、それを元に戻すこと・・・無知だった私を赦すことや、神は断罪をしないなどを学び、理性を取り戻すことをしました。
そういうことを経て、現在は、環境問題への取り組み方の意識、スピリチュアルへの取り組み方への意識、その他社会との接点での意識、最近ですとコロナのことなど・・・いろいろなことから、日々、「真の理性」の意識を見直しさせられている気がします。

みなさんは、「理性」と聞いて、どうでしょうか?
真理を真剣に求めて学ばれている方々は、物事の「背景の意識」によって現実が変わってくる、ということを、よく学ばされていることと思います。
同じことをしていても、意識の置き所の違いにより、結果(現実の変化)が変わってきますね。
「理性」と聞けば、「物事に道理をもって当たれる」ということになります。
ところが、本当に「道理をもって当たれる」人なんて、そんなにいないと思います。
道理をわきまえているように見えて、よく観察していると、実は、誰もが、何か特別な方に偏っていたりする部分があるものです。
常識的な枠組みにはまりすぎていることも、実は理性を持っているわけではないのです。
しかし、気づいていること、自覚していること、自覚しようとする姿勢があれば、必ずアンバランスが修正されてきますので、そこは大きな違いにはなります。

前にも話題に出しましたが、「真理」(や「内なる神」、または、「宇宙の法則」)を、自分の意識の土台にする・・・いわば、「PCのOSの部分を変えてゆく作業」というのは、現実にはWindowsのアップデートのようには行きません。
何か新しい行動を始めれば、とか、何か新しい出会い(人物、講座、環境など)によって変わる、というものではないのです。
(環境は、そこに入れられることで、気付きが早くなることもありますが、基本的には目覚めの姿勢がなければ同じことです)
非常に「アナログ」的な作業だと思うのですが、地道な気づきと実践による肉体化、意外にはありません。
とても、時間がかかります。

そうやって「真の理性」というのは、すぐにできるわけではなく、徐々に段階を経て「真理に適う生き方ができてくる→道理→理性」というようになってくるのかな、と思っています。
真理の道を選んでいる人たちは、なんとなく気づいていると思いますが、だんだん世の中のことに対して敏感に反応してくるにつれて、逆に、おおらかに捉えるように促されたり、いろいろ、「理性の枠」を広げさせられる機会に遭遇しているかと思います。
ところが、その敏感さを、「正当化」して裁いてしまうような状況に遭遇することもあると思います。


最近流行りのコロナについてですが、対応の仕方も、人それぞれだと思います。
ここで理性的に対応しているつもりでも、ワクチンに絡む隠れた動きについてハッキリしないうわさが気になっている人も少なくないようです。
そのため、「自然派」の人たち・・・熱心に環境問題に取り組む傾向をもつ方々、一応、環境との共存を意識している人たちの一部がこの動きに反発していることもわかります。
ところが、そういう方々の中には、自分の行動を「正当化」してしまい、周りが見えなくなっているようなケースもあるようです。
自分以外の方々で「現状(社会状況や、経済状況、周囲との関係性などなど)ではまだ感染すると困る人たち」がいるにもかかわらず、もっと広く見渡せば、医療関係の施設の問題やその他の問題が残されていることもありますが、そのように起こっていることの全体を見ずに、自分の知った情報から個人的な「正しい」を貫いて行動してしまっていたり、「好き嫌い、善悪」の判断に頼ってしまうケースもあるようです。
それから、スピリチュアルをかじっている人たちも、「理性的な判断」を欠いて、「宇宙に偶然はない」とか「なるべくしてなる」という真理を誤ってとらえてしまい、まだ無知の人たちに配慮していないこともあります。
そういう、「自然派」や「スピリチュアルを取り違えた方々」が、皮肉なことにコロナに感染している事例も最近は多いようです。
自然環境や人間の持つ自己治癒力に感謝の気持ちを持っていることは、とてもいいことですし、大切なことではありますが、他の、まだそういうことになじみのないい人達や真理に無知の人たちとの間に、落差があることを「見落として」分離意識(差別的な意識、優位意識や敵対心)で対応しないことが大切に思いました。
他の側面から見れば、その方々の恩恵を受けて生かされていることもあるからです。(エゴは、でもそういう風には見えない、といいわけすることもありますが(~_~;))

 

私自身の経験では、「新しいことを知った時」などに「優位・特別意識」が働きやすくなります。
それはエゴにとっては「心地よい」ものであり、見えないことも多いものです。

そういう考え方にはまっていたら、まずはそういう自分を「赦す」こと、そしてそう言う考えをしている自分を自覚していることです。

 

もちろん、従来型の考え方にはまり切って、無用におびえていたり、逆におびえすぎて差別しているのも違います。

このように、周囲やいろいろなことを観察していると、微妙で、理性的な選択を迫られることも多い時だと思いました。

 

❑意識の上で解放に向かうことを実践することが、何よりの貢献

「表面的にどういうことをしているか」ということに目が行きがちな部分がありますが、こういう時はそれよりも、意識の働きの方が大きいことを思い出すこと、そして、「外側の世界には真実はない」ということを思い出して、あまり外側の現象に囚われすぎないことも大切だと思いました。
識の上では、こういう時は敵対心を煽るような想念に同意しないとか、相手のありようを差別的に批判したくなる想念とかもやって来ることがありますので、それらに同意しないことが大切です。
私自身、そういう想念がやってきて、エゴに同意して「吐きだしたい」気持ちに同意しそうになり、苦しみます。
「敵対心をもって差別意識にはまる」方が、エゴにとっては「楽」だと思い込んでいることがありました。

しかし、昨日気づいたことですが、意識の上で実践してみると、「吐き出す」方向性でエゴに同意しても、解決や解放の感覚は訪れませんでした。
逆に、「赦し」や「感謝」や「気づき」に至ると、解放されて「スッキリする」「つっかえが取れて安らかな気持ちになる」という違いが、改めて、はっきりと認識できました。

 ※以下2行加筆箇所です

そして、ACIMのテキストでも再確認できましたが、「赦し」をすると、同じところで引っかかっている人たちなどにも伝わったり、敵対している人たちにも伝わり、その敵対している方々が「真理を受け取りやすくなる」そうです。

 

また、自分の知っていることや、得た知識や実践から得た経験でさえも、それをもって「裁く」ことをしたくなる時がありますが、同意しないように、見て流し自覚しています。


特に現在は、社会的にいろいろなエゴがあぶりだされてきていますので、当然ニュースを見て自分の意識がどちらかに傾くことはあります。
そういう時に、どちらかに加担している自分に気づいて、離れてみていることや、そういう想念に同意しないことがとても大切に感じました。
必ず思い出すのが、「エゴに力はなく、神の意志を貫くことに強さがある。また、想念に同意しないことが強さである」ということで、そこに意識をスイッチするように心がけています。
これは、今、私のできる限りの「理性を保つこと」だと感じています。

また、今、感謝できなかったことを見直して、感謝できるような気持ちをもてるようになることや、本来感謝すべきことに感謝するとか、当たり前のことに気づいていなかったら、感謝の心をもちなおすとか、小さなこと、できること、足元のことを、できる範囲でやろうと思っています。

🌿当たり前のことや目の前のことなど、生活の中で気づいていなかったことに感謝の気持ちを持つよう、心がけを・・・🌿

この時期に、コロナではない病になっても、まだまだ目覚めに至らない人たちもいるものです。
最近、私は、そういう人に目覚めを知らせる機会がありました。
とはいっても、まだ目覚めにもスピリチュアルにも興味も示さない人たちだったのですが、しかし、彼らは家族ぐるみで病になっていたので、明らかに向こうの背後や絶対存在(真我)から「そろそろ目覚めが近づいているから教えてくれ」と言われているような感じだったので、とても簡単な「ホ・オ・ポノポノ」の本を渡し、簡単に真理の世界を解釈した手紙を添えて渡しました。
しかし、私が見る限りは、彼らは、まず「生きていること、周りに生かされていること、病になることによって、自分たちが実は感謝が足りなかったこと」に気づくべきだな、と思いました。(過去の自分を思い浮かべながら、赦しをしましたが。笑 誰でも気づかないものですね。)

私たちの目に見えない師匠は、「病になるのは、感謝不足じゃ」と言います。
それから、過去のコロナが今よりも重篤だった2年前に、インドの少年が「これから、どんどんコロナウイルスが変異して行って、ワクチンが効かないが、オーガニック野菜を食べることによって、免疫力が上がる」と予言した話をブログで伝えたことがあります。
私は、その予言の背景にあるのは、「感謝の気持ち、が大切」ということではないか、と思いました。
感謝の気持ちとは、もちろん、「どんなことがあっても、毎日頑張ってくれている地球環境に対する感謝の気持ち、配慮の気持ち」として、「オーガニックのお野菜」ということになるのだろうと思いました。

ここでは、オーガニックのことやそれにまつわる環境関係の話題は長くなるため割愛しますが、食べるものとして選ぶとき、オーガニックを選択するには、人や住む場所によっては経済的な負担になりますので、やはり、ここでも、まず最初にあることは「どういう意識で食べるか=まずは感謝の気持ち」のように感じます。

さらに、いろいろな社会の状況を合わせてみていき、インドの少年の予言の解釈を拡大していくと、「地球に生かされている感謝の心」というものが、テーマになっているように感じました。
もっと拡大解釈をしていくと、やはり「感謝の気持ちで日々生活しているか」ということになってくるように感じます。
「ありがとう」をどんなものに対しても言っていく「感謝瞑想」をしていると、意外と「分離している=感謝できていないこと」に気づかされることがあります。

🌿最後に🌿

上述で「理性」について書いていましたが、「理性」とは、「神の判断」ではないかと思いました。
ACIMでは、「神の意志」という言葉で表現されていますが、それを受け継いで、体現していくのが「神の子」です。
でも、神の子がその判断を振りかざせば「裁き」になります。
それは、いくら神の子でも、常時起こっていることであるため、どこまで気づけるか、そして、気づかせてもらえたことに「感謝できるか」ということになってくると感じました。
もちろん、「神の子」として、「感謝の体現」をすることが大切なので、神の判断を学ぶことは大切でもありますが、
何より、自分という存在は、同時に色々な意識レベルを生きているのですし、ということは、同時に他のいろいろな意識レベルの方々に生かされていることも事実ですから、気づいたところから自分の足元の感謝すべきことを見直そうと思いました。
それが、私たちの目に見えない師匠の言う「真理を学ぶ前(宇宙人になろうとする前)に、ちゃんと人間を生きなさい」ということだと思いました。
これは、「普遍的」なことだと思いました。
普遍的だということは、「真理」でもあります。

話題にあげた、自然派の人たちも、自分たちの「主義主張」を正当化するために一生懸命になっており、どこか「わかって欲しい(でもわかってもらえない)」という気持ちになっていることもありそうです。
そのため、同じ考え方を主張する人たちと集って、安心感を得ることもあるようです。
逆に、そういう何かをつかんで安心をすると言えば、ワクチンを打って、対策もしているから万全、を信じて安心感を得ることも、また違うと思いました・・・。
また、オーガニックや自然栽培の物を食べているから良いというわけではない・・・つまり、絶対はこの世界に存在しません。

やはり、こういう不安定なご時世を生きてゆくには、最終的には「神の安らぎ」に「意識があること」が、一番の「安全策」であると思いました。
やはり、ここにしか答えがない気がしています。
分離意識を統合していくと、「対立」や「分離意識」が土台になっている機会を目にすることもあると思いますが、その時に、「赦し」や「統合」、「感謝」と「理解」に持ち込めるかどうかが、進化の度合いがわかってくると思いますし、より「普遍的な安全」を得られる(神の幸)感じがします。

「病」は、真理から言えば「分離意識」が創るものです。
だから、コロナ感染も同じことなのかな、と思いますし、特に「共生、共存の意識」をどう捉えているか、どう受け入れているか、ということにもなってくると思いました。
「感謝」の対象が、一方的だったり一部分だけなら、「共生」の枠をもっと広げる必要もあるようです。

最後に、皆様が、「感謝の気持ち」で、穏やかに意識の変化を乗り越えていくことを願っています。
(私も同じです、頑張りますっ(^^;))

今日の話題はここまでです。
お立ち寄りくださり、誠にありがとうございました。
何か参考なったことがあれば、幸いに思います。

🌿ほのぼの図書館ー共生・共存のためのお役立ち参考図書のご紹介『ごみを出さない気持ちのいい暮らし』家の光協会

感謝をしていけば、やはり、「共生、共存」のテーマとして、地球環境に対する意識というのも、それぞれの置かれた場において、できることから、変えてゆく必要があるように感じました。

例えば、先ほどの話のように、オーガニック野菜を食べて、有機農家さんを応援することもいいことだと思いますし、できれば、市民農園や、できる人なら田舎暮らしなどをして自給を少ししてみること、などから、普段は見えなかったことも見えてきます。
それにより、視野も広がることも事実ですし、輸入に頼っている日本の農事情に対しても、自給によって環境問題(や健康のことも)貢献することになります。

また、今話題の「プラごみ問題」も、日本は確かに分別回収はしているのですが、実際は9割がリサイクルに間に合わず、他国でゴミの山を作る結果となっている、という深刻な問題もあります。
なんとも嘆かわしいことですが、視野を広げると、そういうことも、「メンドクサイ」「自分一人がしても」とか「別にいいや」「いちいち気にしていたら気が狂う」などの雑多な思いにまみれず、地道に小さなことに取り組むことや意識を変えていくこととして、意識の浄化の対象になっていると思うのです。

感謝できないもの・・・例えば、プラごみ問題など、に対しては、それはそれで、気づかせてもらったことに対して感謝をして取り組んでいくべきだと思いました。

我が家では、プラごみを減らすよう、何ができるか考えるためのヒントにもなりましたし、意識の再確認にもなりました。
また、有益な新情報を得ることが出来た一冊でした。
都会生活者のためのアイディアもありますし、エコロジカルで素敵な暮らしのヒントが、素敵な写真と共に掲載されています💖
本棚に一冊いかがですか💖

 


🌿ほのぼの写真館―我が家の「深山オダマキ」

美しいオダマキです。2年目の花を咲かせてくれました💖
とても凛としたたたずまいが美しいです。