恐れの回転の社会に光を―生かされているという視点を持とう | The trumpet shall sound!~魂の目覚めの福音をお届けします~

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愛と感謝にあふれた「内なる神」を生きようと出た、意識の統合の旅。想念観察をコンパスに、道中で得た『叡智』を分かちあっています。

こんにちは。
色々と気づきがありましたが、GWの仕事の忙しさとその後の農作業の忙しさによって、ブログ記事としてアップができませんでした。

 

皆さんは、旧暦など、暦を意識して生活することはありますか?
私は田舎暮らしを始めてから、暦というのは、自然と共に暮らすには、とても意味があるとわかりはじめました。
この記事を書いた日のあたりは、5月5日でしたが、旧暦の七十二候では「蛙(かわず)始めてなく」という日でした。
ちょうど、その前日からカエルが水の入った水田でゲコゲコ大合唱を始めました。
これが始まると、いよいよ稲を植える準備が始まってくる、夏を迎え始める、という気がしてきます。

私は、カエルの大合唱を聞きながら、畳にゴロリとして、ウトウトすることが至福の喜びです。
暦は、とても季節感が豊かな日本の暮らしを教えてくれるもののようです。

🌿恐れの回転の構造-でも、真の自己はすでに満たされている(神と共にある)

今日は、『奇跡講座 ワークブック』L160「私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である」でした。
仕事前にざっと読んでから出勤すると、仕事中、突然何やら閃いたようにわかったことがありました。

「私は、もっと稼がなきゃ食いっぱぐれる」
「もっと動いて働かなきゃお金が入ってこない」
というような恐れがあることに気付かされた感じになり、「ああ、これはワークの内容が具体的に聖霊がどういうことか教えてくれたんだ」とわかりました。

そうやって、普段から職場では「鞭を叩いて」自分を急き立てながら働いていることが多いです。
仕事が終わると甘いものを沢山食べたくなるのですが、なぜなのかなぁ・・・と、観察をしていたら、次第に「甘いものは、鞭を叩いている自分への癒し」ということではないかと思えてきました。
 
私の信じている「私はもっと稼がなきゃ食いっぱぐれる」とか「もっと動いて働かなきゃお金が入ってこない」というのは、真実ではなく、実は分離という幻想であると、知識で頭でわかっていても、結局職場に行くと雑念のノイズにまみれて忘れてしまい、不足感の意識にまみれて働いてしまうことが多いようです。特に、人が多いところなので、引きずられて埋没してしまうようです。

真実からいえば、私たち(真の自己)は「常に満たされている」と言われています。
このワークL160の「私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である」は、まさに「私は神と共にある」ということです。

私は、いつも「現実と神の世界の真実」との間で、悩みます。
なんで、「常に満たされている」と知っている部分が自分の中にあるのに、鞭を打ってまでやってしまうのかといえば、やはり 「今稼がなきゃ、明日には足りなくなるかもしれないから」などの「恐れ」があり、未来に「欠乏」するかもしれない、と、そっちを実在化させてしまうような恐れの思いに同意しているのがわかりました。
「私は自分の家にいる」ということ、「満たされている」ことの方が、残念ながら信じられないのですね。
これは、長いことこういう「欠乏感、飢餓感」と共に生きてきたからなのかもしれませんが・・・(今生だけではなく)。
そう考えると、日常の些細なことかもしれませんが、実はとても根深いことなのかもしれないなと思いました。

また、欠乏感をそれとして知覚できるのまだましな方であって、目覚めていない多くの人たちは、無自覚です。
その人たち(や、社会のありよう)は、自分が何か欠乏をひどく感じると、他者や、「外の何か」で穴埋めすることをして(もらって)、また鞭を打って・・・という、悪循環にはまっていることが、だんだんわかってきました。

そういう意識だから、この社会の欠乏感、奪い合いなどがなくならないのかなぁと思いました。
また、「恐れ」を無くそうと、鞭を打ってまでやることにより、心身を病むとか、異常に疲れるという結果に到ります。
両方とも幻想(分離エネルギー)を実在化させているわけですから。
戦争や貧困、病・・・そういったものが無くならないのも当然ですね。非常に納得します。


人の多いところで働いていて、なんだか「鞭で叩かれたような感じになって帰ってくる」けど、瞑想やACIMやその他の真理の教科書などを読んで調整をするからまだいいですが、そのような調整をしない場合、年を取ったらこれでは病になることは避けられないなぁ、と感じました。

自分のことだけではなく、周囲のため、社会のためにも、いかに、真の自己への調整が重要か、ということがわかります。

🌿前回の「不便さ」について書いたことについて、加筆-「(神に)生かされている、という視点を持とう」

私は、前回、「みんなが少しずつ不便をすれば、問題は解決に向かう」ということを言っている人の話を書きました。
それは、方法論のようなものですが、ある意味「真実」だと言えます。
簡単に書きましたが、そういう私も、その人の話を聞いて、最初は「良いね、わかる」と納得しましたが、その後実際に生活に受け入れるには、かなり葛藤しました。

不便をする、ということは、楽をするための便利な生活を少し手放さなければならないのです。
でも、便利さの裏では、実は「もっともっと」と鞭を叩いてまで仕事をしたり、何かを満たそうとしていることに気付いていないことも多いのです。対象に熱中しているのです。
そもそも、こんなに「便利」になっているのに、「忙しさから解放されることがない」というのは、やはり「幻想を信じている」からなのだと思います。

みんなが鞭を叩いてまで働くのは、「未来に欠乏するかもしれない」という「恐れ」からというのもありますが、
これだけあっても「まだ足りない」という現状に対する不足感を感じている人たちも多いはずです。
「もっともっと満たさなきゃ、満足できない」という観念です。
一見自由に振る舞っているように見える人も、内的には、そういう不足・不満という分離に囚われていることもあります。
 
私自身の経験からいえば、「不便さ」を受け入れようとする時には、「なにやら損をするかもしれない」という気持ちになりました。
確かに、利便性のために頼っていた部分を自分で何とかやったり、アナログな方法を使ったり、捨てずに使うとか、修復して使う、自分で作る、などという事になるからです。
実践すると、「足るを知る」というような感じにさせられます。そのため、エゴは不満を感じます。
ある程度、その欠乏感が「幻想だ」と目覚めていくまでは、知覚が伴うから、エゴは「苦しい」とか「嫌だ」とか、「そんなことをしたら、ビンボーしているみたいで嫌だ」「やってみるとメンドクサイ~」「お金にならないしぃ~」というような観念がむくむくと湧き上がってきて、その先に進めなくなることが何度もありました。
葛藤もしました。
たまに、イラついて「鬼」になったりしたり、先輩に当たり散らしました。
真実は真実なので、いずれそこへ行かなければならないのだろうと思うと、嫌でふてくされたりもしました。
「不便をする、と苦しくなる、物足りない感じがする、貧しくなるように思う」
というのは、エゴの知覚です。
だから「恐れ」を感じたり、「損するかもしれない」と感じてて先に進めないのですが、実はその先にある境地は、内なる神(真の自己)にとっては「あるがまま」「満たされている」ということなのだろうと思いました。

 

このような、「自我(エゴ)の知覚」と「内なる神のあるがまま」の間には、ギャップがあるため、それを乗り越えていくのが、いわゆる「神の道の旅」なのだな、と改めて思いました。

外側の旅の方は、エゴの解放になるから楽しいと思いますが、内側の旅というのは、真に解放されはしますが、幻想を手放すのが大変なので、楽しいとも言えないことが多いと感じます。
でも、それを取らなければ、「恐れという幻想の中での回転(悪循環)」は、無くならないと思いました。

バートランド・ラッセルという20世紀の哲学者が、すでに、第1次世界大戦時代から「働きすぎ」を指摘していました。
最近流行の、便利ツール・・・LINEやZOOM、SNSなど、便利さを使えば使うほど、支配階層の人たちや、IT企業の餌食になることもあります。
そして、便利ツールの利便性に飲まれて行けば、「それを有効利用」という言葉と共に「もっと働くこと」「もっと外側に行動すること」が、まるでいいことのように思ってしまうように感じます。
そのため、常に「次に何をしようか」ということを考えるようになり、常に「何もしていないことは良くない」「何かが足りない」というような欠乏感に駆り立てられて生きるように感じました。
私は、これが、「鞭を打って働く」ことと同じなのかな、と思いました。
また、多くの人たちがそのような意識を無意識につかんで自分を枠にはめ、コントロールしているのかもしれません。

こうなると、私たちは「神と共にある」=「ただある」ということを忘れ、「すでに満たされている」ということを信じない方向性に走るように感じます。
多少の不便さ、というのは、かえって自分を解放することになる・・・神と共にあるということが、強さである、ということを思い出せるようになるのではないかと思いました。

それから、最終的に「(神に、宇宙に、創造に)生かされている」という視点が、重要だと気づきました。
もし、「生かされている」とわかっていたら、あるいは、そういう視点があれば、「度を越して、何かをやろう」とはしないと思うのです。
「体に無理をかけてまで」「環境を破壊してまで」・・・ではなく、何かをやっているとき、「やはりこれは何かおかしい」と素直に思える視点に戻ってくると思うのです。
そのように、「生かされている」という視点を持てば、今の社会のありようがおかしいと思うことと、何かに負荷をかけている自分の在り方が、次第に「真の自己(内なる神)のありようとは一致しない」ということが見えてくると思います。
 
今回のこの気づきを、自分で自覚しながら、少しずつこの気づきの光を、社会に還元できたら、と思いました。

本日もお立ち寄りくださり、誠にありがとうございました。
なにか参考になったことがあれば、幸いに思います。