3月1日、朝鮮3・1独立運動記念日に映画を観に東京・渋谷のユーロスペースという映画館で上映している『金子文子 何が私をこうさせたか』(浜野佐知 監督/旦々舎)を観に行きました。浜野佐知 監督の他の映画を観たことはなかったのですが、2023年の9月頃に浜野監督が「金子文子」を映画化するという記事をネットで知って、そこで制作費を捻出するためのクラウドファンディングを呼びかけに私も一口支援しました。勿論その前に浜野監督がどういう経緯で映画を作るようになったのかも調べさせてもらいました。Wikipedia情報によると浜野監督は、もともと68年に若松プロダクションに入って映画作りの世界に入った人なのですね。
「最初の仕事として『性遊戯』の制作進行を担当するが、すぐに退職。ロケ先で相部屋に泊まっていた主演女優のもとに主演男優が忍んでくるため寝られないと翌朝足立正生監督に抗議したところ一蹴され、そのまま荷物も置いて埼玉から新宿まで徒歩で帰社。若松にも取り合われなかったため退社となったという」(wikiより抜粋)。この壮絶なエピソードを知り、私も個人的に良くも悪くも足立正生氏を知る者としては「面と向かって抗議できた根性はすごい」感心してしまって、それだけで「金子文子」の映画宣伝用のチラシ配りでや金銭面の支援で応援する気になった次第です。
もうこの日はずっと劇場は満席状態でした。13時から入場しようとしたらもう満席で、仕方なく次の回でようやくチケットを買うことが出来たのですがこれも最後の3席しか空きがなくて滑り込みセーフで買うことが出来たのです。舞台挨拶もスケジュールの都合なのか2回目は上映の前に行われたためネタバレなし!ということで浜野監督、主演の菜葉菜さん、看守役の和田光沙さん、栃木支所長役の結城貴史さんが壇上に上がり、監督は製作に至るきっかけやエピソードなど話され、役者さんたちもその役柄についての印象や役作りの難しさを語ってくれました。監督をはじめ役者さんたちも「金子文子」の映画化については2017年に韓国映画として公開された『金子文子と朴烈』と比べて述べられて「あの映画の中の金子文子は朴烈という革命家の男性に寄り添う伴侶として描かれているけど主体性のある本当の姿を出せていない」と語っていて、監督曰く「こんなの文子じゃねえ‼」とまで仰るくらいあの映画を観て事前に資料や獄中手記「何が私をこうさせたか」を読み込んでいて自分の頭の中に思い描いていた文子像との乖離に「愕然とした」と、そして「たえず朴烈とセットで語られてきた文子を、たった一人で権力に抗い、死を賭してまで自分自身を生きた一人の人間として描きたい、と思った」と述べています。挨拶の途中に司会を兼任した結城さんが浜野監督を紹介するとき、「女監督の…」と言いかけたとき「だからそういう言い方はやめなさいって(笑)」と遮る浜野監督にそのこだわりが垣間見えた気がしました。
さて、肝心の映画の感想です。まず、主演の文子を演じた菜葉菜さんですが映画のなかのキリっとした表情が本当に「金子文子」の写真にはまっていて一見、どこかで見た俳優かな?と思ってはいたのだけど思い出せなくて、あとでパンフレットのインタビュー写真を見てようやくNHK教育テレビのスペイン語講座で「おねえさん」役で出ていた人なんだと思い出したくらい、素の顔は明るい笑顔の女性なのですね。それが、この映画ではまるっきり別人格の表情を演じきっているわけなのですごいと思うと同時に役作りには相当大変だったのだろうなとも思いました。監督はこの脚本を作るとき、文子のキャラクター設定を『何が私をこうさせたか』の他に獄中短歌集『獄窓に想う』を徹底的に分析したそうです。なにせ100年前の人物を知る人も今は生きていませんしひじょうに限られた文献からとはいえ、確かなファクトチェック(裁判陳述記録や刑務所資料)でその人格や感情表現までほとんど実際に近い文子を再現できたのではないかと思います。その裁判所の判決を言い渡されるシーンでも朴烈はハングルで長々と抗議するのと比べ、文子は立ち上がり堂々と「万歳」と大声で叫ぶ姿は、現代の二十歳の女性に真似できるのか?と思えるくらい勇ましい姿です。もうひとつ印象に残るシーンは宇都宮刑務所に送られた文子に「転向」を迫るも頑なにそれを拒む態度に業を煮やした支所長が「お前は日本という国を根本から否定するのか!」と恫喝するときにその言葉には、“こんな常識的なことは否定できないだろう”と言い含めるような感情のこもった台詞で迫ります。もしそんな言葉を私が浴びせられたなら「いや、そうじゃないけど」とか、つい言ってしまいそうな場面ですが、それに対し文子は「如何にも、そうだ」と表情も変えずに言い返す様子に、観ている私も思わず唖然としてしまうと共にそのあまりにも一寸の淀みのない態度にある種の小気味さまで感じ、帆くそ笑いすら出てしまうほどでした。現代の世の中で公然とこんな発言したらそれこそ百発百中で「反日分子」の大コールが沸き上がるでしょう。それほど、私にとっては痛快な場面でした。
そして、場面が進むうちに文子の幼少期の「無籍者」としての辛い体験を経て、朝鮮での3・1独立運動のなかで自分と同じように日本帝国主義から奴隷のようにこき使われてきた現地の民衆が声をあげ立ち上がる姿を見てそれに共感を覚える心情を語ります。しかし、その民衆は日帝の軍隊に虐殺される姿も見てきた憤激から「すべての人間は人間としての資格において人間としての生活の権利を平等に享受すべきと信じています」と人権の概念を語っています。更に、死刑判決を受けて刑の執行を待つ身の上に突然、天皇即位の恩赦が下された際にこの「自分の死を免れる」恩赦状を「人の命をもてあそぶな」と言って破り捨てる。これは凄いなと思います。何が凄いかと言うと文子はまだ20台前半でなぜそのような胸中に至ったのかと私は考えたしまいます。これは私の勝手な想像ですが、おそらく文子は幼いうちから数えきれないほど自分と同じ境遇の人の死を目の当たりにしてきたのではないかと思うからです。朝鮮で生活するなかで多くの朝鮮人が独立運動の最中、日本軍や警察の弾圧を受け無残に殺される姿、更には関東大震災によって「盤石だ」と思われてきた帝都東京の崩壊と直後に起きた朝鮮人の虐殺事件で人間が人間をこうも惨たらしく虫けら同然に殺していく地獄を突き付けられて「犬ころ同然の自分」もまた殺されるのだと覚悟を決めていた矢先、文子が諸悪の根源だと思っていた天皇に恩を売られて助かるなど、露ほども思いたくはなかったのではないだろうか。そんな気がしてなりません。それでも短歌ではこう詠っています。ー 指に絡む 名もなき小草つと引けば かすかに泣きぬ『我生きたし』と ー
国家権力は、大逆罪と爆発物所持の罪状で文子と朴の2人を死刑にしようとしました。ところがそれが出来ないとなったら今度は無期懲役の中で「転向」を強要したのです。それでも頑なに信念を貫いて屈することのない文子ではありましたがその心情の葛藤を数多くの短歌に書き記していました。誰かに宛てる手紙でもなくおそらくは自問自答していたのかも知れません。大震災で街のすべてが破壊され人々がパニックに陥って社会が機能を失う様子を見た文子は「これぞ自分が願っていた破壊だ」などと想ったでしょうか?私はそうは思いません。それは文子の短歌を詠んでいけばその心情の変化が判るような気がするからです。裁判の当初、文子は自分の職業を「現に在るものをぶち壊すのが私の職業」と述べています。しかし、それは本心ではないと思います。映画の最後で文子の台詞で「人を生かしたい」という場面があったと思います。それほど人の命の刹那を知るだけに生きることの大切さも痛感していたのではないかと私は思いました。文子の最期を知るだけに「何が彼女をそうさせたか」と考えざるを得ません。
最後に、映画のクラウドファンディング呼びかけチラシを受け取っていただき支援に応じたくださった方々にお礼を申し上げます。




