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無道探訪‼︎                                         

 

 

 以前から私が気になってた映画『ハラン』は、済州島四・三事件をモチーフとして国家による暴力に翻弄されながらも必死に生きようとした母子の絆の強さが描かれている。主題の『ハラン』とは済州島の漢孥山に自生するラン科の高山植物で済州島の過酷な冬に紫色のきれいな花を咲かせるランとして韓国では天然記念物となっている。まさに、この映画のタイトルにぴったりの名前であろう。

 

 映画のシーンで討伐軍や警察に包囲された村から村人たちが野原に集合させられて尋問が始まり、若い男女たちはほとんど山に立てこもり村には老人や子どもたちしかいないのでみんな最初は「老人や子どもに手出ししない」と安心していたところ、討伐軍のなかには米軍の将校たちがいて、その中の指揮官が何やら韓国軍の軍曹に耳打ちした直後に「全員殺せ」と号令を下す場面がある。これは、実際に当時の村人の証言や米軍関係者らの証言により、村民虐殺に米軍が指揮していた事実を再現しているのだ。私はにわかに信じられなかった。別のドキュメンタリーフィルムで私が得た知識では「日本占領時代に憲兵隊の下で働いていた警察や軍人などが済州島の討伐帯で村民虐殺を行った」と語られていたので、私はてっきりそれだけの情報をうのみにしていたのだ。しかし、日本帝国主義の植民地支配から解放したはずの米軍がこのような民間人の虐殺に加担していたとは、1950年に起きた「ノングリ虐殺事件」を知ってはいたものの、済州島でも同じ惨劇が行われていたのだ。あらためて戦場の狂気を感じさせられた。

 

 ここでは、ネタバレになるので映画の中身は語らないようにしよう。四・三事件は史実であるが物語のラストシーンは観る者の感性に預けられているといえる。主人公の若い母親と六歳の娘の身の上はどうなるのか?まずは映画で見極めてほしい。

 

 

 

 上映後に監督のハ・ミョンミさんが舞台あいさつに上がり、制作についての苦労話や史実の解説をされたので紹介したい。

壇上には、配給会社シネマスコーレの木全純治さんが司会に立ち、ハ・ミョンミさんに質問していくかたちで進められた。

 

 Q.  監督はもともとソウル出身の方だそうですが、済州島に拠点を移されて12年前から調査・取材をされてきたとお聞きしました。どんな活動をされていたのですか?

 

 A.  2001年から済州島に行きまして、初の短編映画などを撮っていました。それが済州島との縁のはじまりでした。その後も、映画の仕事で疲れたり気分転換したいときは済州島に訪れていました。そうするうち、2013年になって自分のオリジナルの脚本を書くときに島で起きたことをテーマにしたいと思って取り組んでみました。そこからこの映画を撮ろうと思って8か月ほど島に滞在して準備し始めたのが10年以上前となりました。

 

 

 

 Q.  そこに「住む」という決断に至るまでにはどのような思いがありましたか?

 

 A.  決断というより、ソウル出身だから都会生活しかしたことがなくて、その場の自然の中に住むということが自分にとっては凄く新鮮なことで、いろいろな自分の感覚が動いている感じがして「この自然の中にいたい」という気持ちで10年が経ったという感じです。

 

 Q.  そこで、今日が4月3日ということで、済州島では慰霊祭が行われていますが、それに参加するようになったのはいつ頃からですか?

 

 A.  私が済州島に移住する前には、実は私も「四・三事件」についてよくわからなくて、生活していたら毎年、「四・三」の式典やイベントがあったので、周囲の人たちがひどく悲しんでいる姿を見てじぶんも心を痛めて共感しながら歴史にも興味があったのでそういった経験が重なり、自分1人じゃなくてより多くの人たちに経験を共有してほしくて「四・三事件」で亡くなられた人たちを思ったりする場を作りたいということで自分ができることは映画を作ることだと感じて、少し時間をかけて映画を作りたいとの気持ちを抱いてこれが2本目の長編なのですがようやく夢がかなったというわけです。

 

 Q.  シナリオ化するにあたってどれだけの時間をかけて今回の制作に至ったのでしょうか?

 

 A.  済州島に住みながら母親と娘の2人が成長していく過程を映画化したいなと思ったのは7~8年前です。そのころ、初稿みたいな感じで書いてみました。2023年に「これは映画化しないと」と決めました。そこから2年かけて映画が完成したということになります。済州島に住み始めたのが2013年だったのですけども、家の隣に90歳以上の生まれも育ちも済州島のお婆さんたちがいっぱい住んでいたのですね。その人たちと仲良くなっていって、そのお婆さんたちの26歳の時、あるいは6歳だった時には「どういう生活をしてどういう経験をしたのか」とか、すごく知りたくなってそこから交渉してお話を聞く機会を得て今の映画化になったというわけです。

 

 Q.  そこで制作に至るわけですけど、光州事件は「タクシー運転手」が出てくるくらい一般に知られているわけですけど、まだ「四・三事件」は韓国にとっては負の歴史なのでこれを制作するには非常に苦難があったと思うのですけど?

 

 A.  たいへんでした。「四・三事件」についてドキュメンタリー映画が作られたのは韓国では12年ぶりです。ドキュメンタリーとかはあったのですけど、今回みたいにアンジ役のキム・ヒャンギさんのような大衆的に知られている俳優さんと「四・三事件」の映画を撮るということは必ずしも簡単なことではなくてたいへんでした。でも、自分はあまり何かを怖がるというようなタイプではないのでこの映画を作れたのではないかと思います。「四・三事件」を扱った映画を作るということは自分にとって「だいじょうぶなのか?」というか、ちょっと怖いところもあって、最初はだれにもこのことを言わずに秘かに準備をしていました。だから、題名にある「済州島」「四・三」という言葉は公開のときに出した言葉でそれまではあまりこのワードは出しませんでした。

 

 Q.  それで、撮影に入る前に役者さんはどのようにして選ばれたのえすか?

 

 A.  キム・ヒャンギさんは韓国で3歳から芝居を始めた子役出身なので「彼女がお母さん役」ということがとても周りが驚いていたのですけど、1948年の済州島に住んでいる女性たちの記録を探してみると、そのころに出産して母親になった女性がたくさんいたので考証からして今のキム・ヒャンギさんの歳とちょうど合っていたというのと、演技力は申し分ないのですけど今、若い世代じゃないですか。その人たちが「四・三事件」の事をイメージするとお爺さんとかお婆さんのイメージしか持たれないのですね。ただし、その当時の人たちはみんな20代で子どもたちが多かったということなんですよ。なので、キム・ヒャンギさんに主役のアジンを演じてもらうことによって、今の韓国の20代の若い世代にもこの事件を身近に知ってもらいたかったからです。ヘセン役のキム・ミンチェさんはオーデションで選ばれたのですけど、そのときが6歳、それで韓国では数え歳なので今は9歳になったのですね。ヘセン役で最初、会ったときにその表情から監督は「あっヘセンだ!」と感じていました。一般的に韓国の子役でオーデションの時など、ちょっと「わちゃっ」と笑ったりするのですけど、それが無くなぜか子どもなのに深い表情があって、その当時の子どもの表情に合っていた凄い魅力的な子だと思いこういうキャスティングをすることになりました。

 

 Q.  この作品は全部、済州島で撮影されているのですけどかなり苦労も多かったと思いますがもっとも大変だったシーンはどこですか?

 

 A.  ご覧になったように山のなかでの撮影がほとんどで外で行われたので大変だったし、予算の問題が凄くあって、限られている予算の中で自分が撮れるカット数が1000カットくらいだったので大変でした。ただ、撮影場所や予算の関係とか大変なことはたくさんあったのですが、そのなかで一番大変だったのは感情的なことでした。あまりにも悲しい物語を描かなければならなかったのでそれが感情的に大変だったと思います。脚本を書くときにも悲しくて、撮るときも悲しくて、編集を見るときも悲しくて、もう涙が多いじゃないですか。だからけっこう悲しい感情の整理が大変だったと思います。

 

 Q.  僕は非常に衝撃的だったのは、やはりみなさん見ていただいた通りラストシーンになると思います。このエンディングはどのように作られたかお聞きしたいと思います。

 

 A.  映画を撮りながらラストシーンに出会ったといえますね。エンディングは「こういう口上でこういう風になるのだろう」と思っていたのですけど、実際には撮ったカットを使えませんでした。当時、亡くなられた方たちを観客の方たちが思い出していただきたかったのもあるし、「アジンとヘセンが最後に生き残ってほしい」という思いを伝えたかったのであのエンディングになりました。

 

 Q.  最後の質問になります。この作品のエンドロールの最後に写真が出てきます。その時に日付が入っているのですね。1947年3月1日、この日付はいったい何なのだろうなと私は思っていました。これは何でしょうか?

 

 A.  「四・三」について皆さん語るときに、4月3日の1日で何かが起こったと思われがちなのですけど、映画のはじまりはそうではなくて、10月から始まるのですね。「四・三事件」を理解するには、その前の歴史とその前の日付が大事なのだと示すためにもそれを入れました。1947年の3月1日は、ちょうど28周年の独立記念日でこの日に起こった「ある事件」が凄く大事でこの「四・三事件」に大々的に影響を与えているということを伝えるためにその写真を入れました。今日まさに4月3日で追悼日ということで虐殺で亡くなられた人を哀悼しながら式典やイベントもあるのですけども、実は「四・三事件」は、7年7ヶ月続いた事件であって3万人が犠牲になりました。今年で78周年になって、その長い間、この家族に人たちが長きにわたって被害を口にも出せずに我慢してきてた歴史がそこまで長いということも皆さんに知ってほしいということです。

 

 最後に監督から… 

映画を観ていただいて本当にありがとうございます。済州島に行くとこの写真のように「4・3行方不明者墓域」があるのですけど、済州島の土地の「あるどこか」に犠牲になった人たちが埋もれているかも知れないということを考えていただいて思いを巡らせてくれたらと思います。