お能鑑賞で思いがけず悟ったこととは | 春はあけぼの 女は美学

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50過ぎた女が感じたこと、考えたことを書いてます

こんにちは。

文字つづりすとの渡邊美帆子です。



アラフィフオンナが、
感じるままに綴るブログです。




昨日、人生初の幽玄体験をしてきた。


場所は、



そう、能楽堂。

生まれて初めて、お能を鑑賞してきた。


本来なら、
今年の初め、一月に行く予定が、
コロナのために延期となり、

演目も変更されて開演されたもの。


幻想的な、
そして無駄をとことん省いた和の世界。

歌舞伎のような華やかさはないが、
だからこその
観客に委ねられた世界観が
どこまでもひろがっていくようで。

能面は、
見る角度によって、
光の当たり具合によって
表情が異なって見えるというが、

それはもしかしたら
観客の心持ちによっても変わるのではないかと。


そんな世界の中で、
はたと思い当たった節があった。



話は飛ぶが、
実は先日、思い立って、
様々な理由やご縁が重なり、
実家と婚家の先祖供養を、長野の善光寺に
お願いしたのだった。
善光寺は宗派がないのでお願いしやすい。

参拝しに行こうと思っていたが、
郵送でも受け付けていると知りお願いしたところ
こんなに様々送られてきて驚いた。

同時に、
まずは無事に永代供養をお願いできたことに
ほっと胸を撫で下ろしていたのである。



そんな時に観た、お能の演目「巴」。

非業の最期を遂げた木曽義仲に仕えた女武者、巴。
彼女は主君の死の悲しみと
自分も共に死ぬことができなかった恨みで
成仏できずに亡霊となって
たまたま通りかかった木曽の僧に
供養をお願いする。

死者の悲しみと恨みはこんなにも切なく、
執念を燃やし続けるものなのだろうと、
感じた時、


嗚呼、
ご先祖様がこれを見せている、

今まで、
ご先祖さまがどんなに悲しい思いをしていたか
供養ができて、
どんなに喜んでいるのか

「お能」という形で、
わたしに知らせている、

そんな風に思ったのである。
写真お借りしました、

本来ならば、

一月に観る予定で、
しかも演目も異なっていた。

延期とはいえ、
変更するということで、
お席もど真ん中の前から四番目という神席。

今この時に、
今この演目を、
今この席で

観ることができる奇跡とご縁。


笛と鼓と謡の中で舞う巴御前の素晴らしさと共に

思わず、

涙腺が緩む。


ちなみに言っておくが、
私は全く信心深い方ではなく、だからこそ、
今まで先祖供養も全くしておらず、
しかも、
スピの人でもない。

そんな私でさえも、
お能は、この世とあの世を超えた、
計り知ることができない世界へと
そして、観る人に委ねられた世界へと
導いてくれるのだなと…。


次の演目が狂言だったことにより
ひとしきり笑い、

最後の演目の舞に目を奪われた。

なんだか清々しく、
帰途につくことができた。


ハマりそうだわ、お能の世界。