アラカンオンナが、
感じるままに綴るブログです。
作家、もしくは画家、
いわゆるアーティストと言う人たちは、
見ているものに共感を与えるために
書いているのだと勝手に思っていた。
風景画の中に
自分がかつて観たどこかの景色を
思い出したり
人物画であれば尚更そうだが
抽象画であっても、
そこに描かれる色彩や形やテクスチャー、
もしくは表情に自分を重ねてみたり。
小説ならなおのこと、
自分とは対照的な人物ではあっても
知らない世界であっても
登場人物に思いを馳せ、
時代に思いを馳せ、
時にデジャヴのような気持ちにもなったり
その中に自分を探していた。
理屈なんかない、
ぼんやりとした
共通項を。
でも違う。
共感なんてものがこっち側の観客になくても、
読者なんて想定しなくても
そんなことあったなぁとか
これはワタシだとか
そんなこと思わなくても
本当はもっと自由なものだった。
こっち側の読者や観客に委ねられて、
そんなこと、
どうでもいいのかもしれない。
作家たちは自分の境地を探るために
書いてるんだろうし
表現しているのだろう。
そんな当たり前のことに
ようやく気づいた。
そんなことに気づかせてくれた
この本。
「入門講座 三島由紀夫」
この本は、三島の31作品を解説しながら、
「作品に埋め込まれた内面を探」っていく本。
久しぶりだ。
作家論、作品論を読むのは大学生の時以来。
まあそれだけハマっているということだが。
それぞれの作品の時代背景や
三島の思考やそれに伴う肉体、行動の変化、
それを時に、答え合わせのように
ワタシ自身の読後感と比べながら
時にうなづきながら読んでいった。
この本の最初と最後に
こんなくだりがある。
大切なのは、自分とは違う生き方をした人の、その思索を知り、自分の人生を顧みるよすがとすることではないでしょうか。ここには共感などといった心温まる安らぎはないかもしれません。文学作品に人間の幅や奥深さがあり、それが読んだ人に伝わり、そこから自分や他者を知ることになれば幸いだと思います。生きると言う事はそういうことですから。
三島の行き方にも、死に方にも作品にも、私たちが生活の中で習慣し範囲を限定して考えていることを広げて深めるものがあります。共感すると言うよりは、異なる考えを三島の発言や作品から引き出してみたいと言う願望がまだ続いているのだと思います。
最初の文章は
「はじめに」に出てきたものだが、
そこには三島の根本的な幼い頃から感じていた、
言葉にならない「欲動」についても
述べられているため
一読した時には気づかなかったのだ。
そして、
その後の文章は、本の最後に出てくる。
ここを読んで、
雷に打たれたようだった。
アートとは、
文学とは
読者や観客とは違う世界、
知らなかった世界の枠を飛び越えるような
そんな感覚を知らしめてくれるものだと
初めて私はこの本を読んで思った。
枠を飛び越えるからこそ
あえて自分を知ることができる。
それは
共感ではない。
前に見たこの雲、ハートに見える。
三島にははっきりした境界線がある。
読者と三島とのあいだに。
多分それが私には心地いいんだろう。
あえて甘えて共感してほしい、
わかって欲しいと思わない。
なんなら読者を意識してない。
最後まで彼の事はわからない。
彼の作品の真意もわからない。
もちろん、評論家たちに評価されず
失敗作だとこきおろされたときには
さすがの三島も落ち込んだもいたようだが。
様々な評論家が彼のことを解説しているけれど、
本当のことはわからない。
桜は人に見せるために咲いてるんじゃないものね
そこが太宰治と大きく違う。
かまって欲しい。わかって欲しい。
そんな自分をさらけ出している太宰治。
同じ時代を生き、
プライドが高いのに自己肯定感の低い、
共通したところがいくつかあるが。
一時期太宰治を読み続けていた時もあったが
今は全く読まなくなり遠ざかったのも
そんな距離感と境界線の違いがあるからなのだ。
人間の意識の底を表現する。
それは多くのアーティストや作家が
行っているのだろうが
その表現の仕方が違う。見せ方が違う。
好みは人それぞれだが
なぜワタシが三島に惹かれるのか
思いがけずに理解した次第。
安易に共感するのが好きではないからね。
共感しなくてもいい、
そう思えて
肩の荷が降りたような気がしたと同時に
文学やアートの見方が変わったような気がした。



