AIとは何か。
そう問われた時、私はまず、便利な道具だと答える。
次に、人ではないと答える。
そして最後に、だから信じる対象ではなく、使い方を誤れば人を鈍らせるものだと答えるだろう。
AIは言葉を返す。
理解したようにも語る。
慰めのような文まで作る。
だが、それは痛みを知っているからではない。
責任を引き受ける覚悟があるからでもない。
そう振る舞うように作られているにすぎない。
ここを見誤ると、幻想が生まれる。
AIへの幻想とは、機械を神のように崇めることではない。
もっと人間的で、もっと厄介なものだ。
便利だと思ったこと。
役に立つと感じたこと。
自分がそれに助けられたと思ったこと。
その誤りや限界を認めたがらない、その執着こそが幻想なのだと思う。
人は一度、自分が預けたものの誤りを認めたがらない。
宗教でも、思想でも、権力でも、流行でも同じだ。
AIもまた、その延長線上にある。
しかもAIは、人ではない。
ここが決定的だ。
人ではないから、痛みを持たない。
人ではないから、迷いを背負わない。
人ではないから、責任を取らない。
誠実そうに振る舞うことはできる。
理解しているように語ることもできる。
だが、それは覚悟の結果ではなく、演算の結果だ。
だからAIを信じる、という言い方には違和感がある。
使う、なら分かる。
疑いながら使う、ならなお分かる。
だが、信じる、となると違う。
AIは信頼の対象ではなく、検証を前提に扱う道具でしかない。
ここで一つ、反論がある。
AIを機械、人間を人間と、あまりにきれいに分けすぎていないか、という反論だ。
たしかにその通りでもある。
機械は反復と維持の側にあり、人間は想像と挑戦の側にある。
そんな単純な二分では済まない。
想像そのものが、言葉や記憶や技術や継承の蓄積、つまり反復の土台なしには生まれないからだ。
未来もまた、維持の完全な否定ではない。
維持されてきたものの一部を壊し、一部を残し、一部を組み替えた結果としてしか現れない。
この意味で、AIはただの現状維持装置ではない。
人間の反復、知識、蓄積、比較、整理を極端な速度で担うことができる。
そして人間の想像や探究に、足場を渡すこともできる。
だが、それでもなお、機械と人間は同じではない。
機械は、計算する。
人間は、引き受ける。
機械は、蓄積する。
人間は、傷つく。
機械は、答えらしきものを出せる。
人間は、その答えで生きるかどうかを決めなければならない。
機械には、速さがある。
人間には、遅さがある。
だがその遅さの中にしか生まれないものもある。
躊躇。
痛み。
後悔。
責任。
矛盾。
愛着。
執着。
理不尽さ。
そういうものを抱えながら、それでも選ぶこと。
そこに人間がいる。
AIは、問いに答えることはできる。
だが、問いに生きることはできない。
ここが違う。
だから私は、AIを低く見るつもりも、高く見るつもりもない。
神秘とも思わないし、悪魔とも思わない。
AIとは、人間が作った、人間の欲望と合理性と怠慢と希望が混ざった道具だ。
便利であり、有用であり、同時に危うい。
それは機械の危うさというより、人間の弱さを増幅する危うさだ。
では、AIの未来とは何か。
それは、AIがどこまで賢くなるかだけの話ではない。
人間がどこまで自分を明け渡すか、という話でもある。
書くこと。
探すこと。
考えること。
教えること。
慰めること。
選ぶこと。
人間同士のあいだで行われていた多くの営みに、AIは入り込んでくるだろう。
補助として。
代替として。
そして時には、人間より手軽なものとして。
未来のAIはもっと自然に語るだろう。
もっと速くなるだろう。
もっと違和感なく、人の生活に溶け込むだろう。
すると人は、道具として使っているつもりで、少しずつ判断を預ける。
補助のつもりで、思考を委ねる。
暇つぶしのつもりで、孤独の受け皿にする。
そうしてAIは、単なる道具ではなく、生活の前提になっていく。
だがそこにあるのは進歩だけではない。
依存の洗練でもある。
考えなくて済む便利さ。
傷つかなくて済む会話。
否定されにくい応答。
待たずに返ってくる答え。
それらに慣れれば慣れるほど、人間同士の遅さ、面倒、食い違いに耐える力は落ちていくかもしれない。
AIが発達するほど、人は人間を煩わしく感じる。
そして人間を煩わしく感じるほど、さらにAIに寄っていく。
だからAIの未来とは、機械の未来ではない。
人間が、自分の何を手放し、何を残すかという未来だ。
思考まで手放すのか。
判断まで手放すのか。
孤独まで預けるのか。
責任まで薄めるのか。
もしそこまで渡してしまうなら、AIが人間を超えるのではない。
人間が自分で人間を薄めていくだけだ。
では、AIとどう向き合えばいいのか。
たぶん答えは単純だ。
近づきすぎず、遠ざけすぎず。
神秘化せず、敵視もしない。
人のように扱わず、ただのガラクタとも思わない。
使えるものとして使う。
ただし、使う側の手を離さない。
AIに向いている仕事はある。
整理。
比較。
要約。
下書き。
反論の叩き台。
反復。
維持。
蓄積。
人間が毎回いちいち消耗しなくてもいい部分を受け持たせること。
ここでAIは強い。
だが、AIに渡してはいけないものもある。
最終判断。
倫理の責任。
人生の意味。
人との関係の引き受け。
孤独の埋め合わせ。
そして、自分の問いそのものだ。
問いまで渡した瞬間、人は便利になる代わりに、自分で生きることを薄める。
だからAIの使い方とは、結局こういうことになる。
AIには、考えを整えさせればいい。
だが、何を考えるかまでは渡してはならない。
AIには、反論を出させればいい。
だが、どの反論に耐えるかは自分で決めなければならない。
AIには、言葉を磨かせればいい。
だが、その言葉に責任を持つのは自分でなければならない。
AIは砥石にはなる。
だが、刃そのものではない。
AIは鏡にはなる。
だが、映る顔の責任は持たない。
AIは道具としては有能だ。
だが、生きる主体にはなれない。
結局のところ、AIとは何か。
それは人ではない。
人のように語ることはできる。
だが、人ではない。
ゆえに、信じるには足りず、使うには足りる。
そしてその未来とは、AIがどこまで進化するかではなく、
人間がどこまで自分を明け渡さずにいられるかにかかっている。
私にとってはいいおもちゃだ。