「過去に捕らわれる」と聞くと、多くの人は、昔の失敗や後悔を引きずることを思い浮かべる。
けれど、ここで言う「過去」は、時間としての過去だけではない。
それはむしろ、現在を固定し、未来を否定的に捉える思考のことだ。
人は、未来が不確定であればあるほど不安になる。
不安はやがて恐怖になり、恐怖は思考を狭くする。
すると人は、複雑さに向き合うより、単純な答えを欲しがる。
未知に進むより、既知に戻ろうとする。
新しい可能性を考えるより、過去の型にしがみつく。
つまり、過去に捕らわれるとは、昔を見ていることではない。
未来を閉じてしまうことなのだ。
恐怖は悪ではない
ここで誤解したくないのは、恐怖そのものは悪ではないということだ。
恐怖がなければ、人は危険を察知できない。
無防備なまま進み、簡単に滅びるだろう。
しかし逆に、恐怖に支配されても人は滅びる。
未知をすべて敵とみなし、可能性を切り捨て、変化を拒み続けるからだ。
だから必要なのは、恐怖を消すことではない。
恐怖に思考の主導権を渡さないことである。
ここで使いたい比喩がある。
恐怖は支配者ではなく門番である。
いわばケルベロスだ。吠えてよい。警告してよい。
だが冥界の王ではない。
門を守る役目はある。
だが、進むかどうかを決めるのは恐怖ではない。
決めるのは、思考と意志だ。
未来志向とは「楽観」ではない
未来志向という言葉は、しばしば「前向き」や「楽観」と同じ意味で使われる。
だが、それでは浅い。
未来志向とは、明るい未来を信じることではない。
良かれ悪しかれ、不確定な未来を前提に思考する態度である。
未来には、メリットとデメリットが整然と並んでいるわけではない。
利害は絡み合い、結果は読めず、選択肢は枝分かれしていく。
人は不確定性が増すほど不安になり、恐怖に支配されやすくなる。
そしてその恐怖は、視野を狭め、偏った見方に安心を求めさせる。
だからこそ、偏狭で偏向した視点では本質を見抜けない。
必要なのは、視野を広く持ち、視点を変え、ひとつの正解に固執しないことだ。
登山ルートは一つではない
未来を考えるとき、多くの人は「正解の一本道」を探してしまう。
けれど現実は、そんなに親切ではない。
登山ルートは一つではない。
進む道を変えることもできる。
迂回することもできる。
立ち止まることもできる。
時には引き返すこともできる。
それは敗北ではない。
未来への適応である。
未来は制御できない。
だが、未来への適応力は育てられる。
そのためには、恐怖を消そうとするのではなく、恐怖を扱えるようになること。
恐怖の声を聞きはするが、王として従わないこと。
警報として受け取り、判断は別に行うこと。
過去に捕らわれる人々の正体
こうして見ると、「過去に捕らわれる人々」とは、過去の記憶の中にいる人ではない。
本当は、未来を否定してしまった人なのだ。
そして、その否定の原点には恐怖がある。
不確定性への不安。
複雑さへの疲れ。
傷つくことへの予防反応。
このお題の核心は、過去そのものではなく、恐怖との付き合い方にある。
そしてさらに言えば、未来を受け入れる適応力を、どう身につけるかにある。
過去に捕らわれるとは、未来を否定する思考である。
その原点は恐怖にある。
恐怖はケルベロス――門番であって、冥界の王ではない。
ゆえに、恐怖は制御、未来は適応。
もうひとつ大事なのは、それをひとりで抱え込まないことだ。
不確実な未来を、ともに語れる仲間をつくれるかどうか。
視野を広げ、問いを共有し、互いの思考を揺らしながら再編できる相手を持てるかどうか。
そこに、未来志向の実践がある。
思考を広げよう。