薬局に行って卵を買いました。

私の家は徒歩1分のところにスーパーがあり、とても便利(主に夕食時に半額弁当を買いに行きやすいという点で)なのですが、私は卵だけは薬局で買います。

 

薬局には小玉の卵が置いてあり、スーパーで買う通常の卵に比べて一個当たり6割程度の値段なのです。

小玉と大玉の違いが良く分からない私にとって、安さが正義であり、そのため卵だけは最寄りのスーパーではなく、わざわざ少し歩く薬局で買うことにしています。

 

今日はその買った卵でゆで卵を3つほど作り、1つはその場で食べ残りは冷蔵しておきました。

こうしておくと、いつでも好きな時にゆで卵が食べれるというわけです。

当たり前のこと言ってますね…。

 

さて、本日無職の私が偉そうに語りたいことは、孤独というテーマでございます。

 

大抵の場合、満たされた人生というのは孤独と対極のテーマになっています。

友達、恋人、家族といった親しい人の数が幸せの指標になることはよくありますし、そうでなくても会社での人付き合いやその場限りの関係性であっても、誰かとコミュニティを作ることが人間としての生き方においては重要視されます。

 

関わりが重要視されればされるほど、当然ですが孤独への忌避感は強まるもので、一人ぼっちに対して恐怖する人は多いように思います。独身の人は孤独死を怖がってる印象がありますし、これは単なる私の妄想ではなく実際に社会的に問題視されているでしょう。

 

そういった孤独に対して、昨今は「一人カラオケ」等のおひとり様ブームが逆に流行ってきていますよね。一人の何が悪いんだ、と声高に主張する人々もいます。この逆張りのような主張が増えるのも当然で、近代化していく社会では一見して一人に見えてもインターネットを介して多くの人とと繋がることができるのは、こうしたブログなどでも明らかです。

今1人で暮らしているからといって、孤独なわけではないのだと、彼らは叫んでいるわけですね。

 

まぁ社会生活から身を置き、こうして無職のまま一人その日暮らしをしている私にとっては、後者の意見を採用したいところですが、その実、今の生活に孤独感というがほとんどないので、一概に一人もいいものだ、などという事は出来ません。

自分が一人ぼっちだと、実は思っていないのですから。

 

私の場合、例えば今日のように買ってきた卵を茹でるだけの日であっても、例えばレジでは店員の方にレジ打ちをしてもらうし、当然卵を生産している方、ガス会社で働いている方、そういった方々の働きの成果を感じてしまいます。

 

ありていに言えば感謝ですね。以前ブログでも話題に出しましたが、私は一方的なコミュニケーションに喜びを感じます。

今、自分が生きているのは、美味しくゆで卵を食べることができるのは、働いている方々のおかげだと強く思うからこそ、本来感じるべき誰かと関わりがないことへの恐怖が薄れ、勝手に満足しているのではないかと推察しました。

 

人間、1人で生きていると感情を使う機会がどんどん減っていってしまいます。

そんなときはふと、手元のスーパーのビニール袋でも見てください。それを渡してくれた人を思い返してください。

私たちが感じている孤独とは、言うほど特別でもないかもです。