“邪道”




お久しぶりの投稿がこんなタイトルで申し訳ない。何の話かというと、音楽に関することだ。




先日、とあるコンサートがあった。
素晴らしい奏者達がリードして、古典派の音楽を斬新なアプローチで演奏するものだ。




僕は、そのアプローチが邪道だと思う。
そもそも、クラシック音楽において斬新さを求めること自体が間違っているのだ。たとえ斬新であったとしても、その向こうには必ず本質がなくてはならない。逆に言えば、作品の本質を追究した時、斬新な演奏など不可能なのである。それが守られなければ、その曲の作曲家がその人である意義が失われてしまう。




当時普及していた奏法・楽器、その作曲家の音楽的語法、作曲家が直接残した記録=一次史料(文通、手記など)、リハーサルや本番などに居合わせた人物が残した記録=二次史料……などといったものから、正しいアプローチを辿ることができるのだ。




そう。
音楽に正解はなくても、そこへのアプローチの段階では模範解答的なものが存在するのだ。




クラシック音楽家は、ロック奏者などのように新たなものを生み出すのではなく、数世紀にわたって語り継がれてきた素晴らしい音楽を後世に伝えていく語り部なのだ。正当なアプローチに基づいて音楽をしたとしても、奏者の様々な要因(人生経験、使用楽器、出身地 etc.)によって少しずつ演奏・解釈は変わってくる。それこそが個性なのではないか。




名曲が生み出されてから2〜3世紀が経過した現代、斬新さや過激さを前面に出した演奏がもてはやされている。しかし、そういった斬新さや過激さは、クラシック音楽とっては邪道なのだ。




作曲家を尊重し、研究に研究を重ねた結果、他の演奏とは少し違うくらいであればまだよい。しかし、奇をてらって誰もやっていないことをしたり、『○○がこう弾いていた』『○○がこういうテンポだった』という表面的な理由によって斬新さが作り出されているとすれば、それは作曲家への冒涜であると同時に語り部としての責任を放棄しているし、それを良しとしてしまう聞き手にも少なからず責任がある。




自分、“なんちゃって作曲専攻”とはいえども、音楽を作り上げるまでの過程は何度も経験しているし、決定的な確信が無いとなかなか楽譜に起こせないことも知っている。そういう理由で、僕は奇をてらわず、作曲家を尊重した正当なアプローチで、自分らしい演奏をしたいという信条が強くある。




クラシック音楽をする側も聴く側も、本当の意味での“良いもの”に触れる機会がもっと必要だし、斬新さに惑わされず本当に良いものを『良い』と思える人が1人でも増えて欲しい。それでこそ、この国のクラシック音楽の未来は拓けると信じている。