「尊厳死の宣言書」というものがあると聞きます。
 
意思がはっきりしているときに、自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしいと宣言し、記しておくものです。
 
延命措置に重きを置かない医療処置を施して欲しいという意思表示書です。
 
超高齢化社会を向かえ、病院や高齢者施設で回復の見込みがないままベットの上にいる方々を見聞して、自分はああはなりたくないと思うからでしょう。
 
先のブログで記したように、「苦しみたくない」「迷惑をかけたくない」「自分のいのちは自分で決める」「そうまでして長生きする意味が無い」と考えてのことでしょう。
 
しかし、「苦しみ」は、苦痛と取り除く緩和治療が進んでいます。
 
「迷惑をかけたくない」と言いますが、子が親をみる(健常者が身体的弱者をみる)事は、迷惑なことなのでしょうか。
 
「自分のいのちは自分で決める」と言いますが、自分だけのいのちじゃないでしょう。
 
「長生きする意味が無い」と言いますが、生きる意味付けって色々あるんじゃないですか。
 
誰もどん終末を迎えるか分からないということは、とても辛いことです。
 
しかし、自分も、家族も、どんな終末であってもその人を大切に思う気持ちは持ち続けたいと思います。
 
先年、母が数年の患いで亡くなりました。
 
その間、看護、介護を色んな人のお力添えを受けながらしてきました。
 
私は、母に迷惑を掛けられたなんて1度も思ったことがありませんでした。
 
本人が苦しがれば別の判断もあったかもしれませんが、そこに寝ていてくれるだけで、色んな事を教えられました。
 
最後の最後まで、その存在は、私にとって有意義な存在であり続けました。
 
そんなことから、人のいのちっていうのは、決して自分だけのものではない、みんなのものだってと確信したのです。
 
自分の意思を通すって事(尊厳死)は、わがままでしかないように思えるのです。
 
綺麗事に聞こえる人もありましょうが、私は自然にいのちを捉えたいのです。