29日、捕鯨発祥の町和歌山県太地町で、この1年に捕獲したクジラに感謝する供養際が行われた。
 
町長をはじめ、地元の漁業者などおよそ110人が出席した。
 
会場の順心寺で、1人ずつ焼香をしてこの1年間に捕獲したクジラに感謝するとともに、今後の漁の安全を祈った。
 
又、「捕鯨は世界に誇れる立派な文化。今後も維持、発展させていく」
 
と決意を表明し、
 
「太地から鯨を消し去ることはできないし、許さない」
 
と述べ、反捕鯨国による全面禁止に向けた動きに異議を唱えた。
 
 
 
こんなニュースを見ながら、何かしら違和感を感じた。
 
自分たちの捕った鯨に感謝すると言うが、感謝でなく 慚愧と反省ではないのか。
 
鯨の冥福を祈るって、どうなんだ。
 
 
「日本人はクジラの供養塚を建ててきた。
 
そして、我が先人たちはクジラの命に感謝して無駄なく利用し、その上でクジラの霊が成仏するように祈ってきた」
 
というが、それは自らの罪悪感からのことではないか。
 
鯨の冥福を祈るって言うが、正直冥福など祈っても祈られても何の意味もないんじゃないか。
 
 
「人間は万物の霊長である」
 
なんて、人間の驕(おご)りでしかないのではないか。
 
そこには、「共生」とは違った思い上がりがある。
 
 
 
 
万が一、私が飼っているメダカを食べなければならなかったとしたら、「有り難う」なんて言わない。
 
「ゴメンね」って言うに違いない