京都花街の女達と話していると、
何でそんなこと知ってるの、
この事が分かるんだ、
って驚かされることが多々ある。
彼女たちの多くは、中学を卒業した頃から置屋に入り、仕込みから始まり、舞妓、芸妓となっていく。
その間、行儀作法から始まり、唄や舞や三味線や、その他ありとあらゆる芸事と教養をも詰め込まれる。
その努力たるや、想像を絶するものがある。
そして、地位、経済力、教養などにおいて社会的に上層に位置する客を接待する生業を通して、耳学問ではあるが知識、教養を身につけていく。
姿かたちの美しさばかりではなく、あらゆる階層の客達をもてなすために、自らも文化人でなくてはならないのである。
今、周りに鏡が多すぎる。
だから、それに映る姿かたちばかりに夢中になり、そこに写っているものが自分自身の全てであると思い込んでしまっているのではないか。
これは女性のことをいっているのではなく、男性もそうである。
男性化粧品の品定めをしたり、月に一度はエステの通ってみたりする。
鞄の中には、あぶらとり紙とオーデコロンを忍ばせて、トイレの鏡の前でせっせと何やらしている姿をよく見かけるものである。
ビジュアリズムの氾濫している今日、内面を映し出す鏡を持たなければならないことは、世を憂う人たちの共通した思いであるに違いない。