1年に1度のご先祖様をお迎えして、お供養申し上げましょうとお勤めする行事がお盆です。
 
日本では、既に七世紀の半ば頃から朝廷でも民間でも行われていたと言いますから、仏教渡来とほとんど同時に行われてきた行事のようです。
 
迎え火・送り火を焚き、お墓にお参りして亡き人をお供養することは日本古来の美徳ですし、日本文化の花と云うべきでしょう。
 

ところが世の中には、とんでもない誤解から美しい花が咲くことがあります。
 
 
そのよい例がこのお盆だと思います。

 
盆という言葉は古いインドの言葉で「ウランバーナ」といいます。
 
ウランバーナが盂蘭盆(うらぼん)と中国語に移され、それが日本で「ぼん」とつづまって渡って来たのです。
 
もとの「ウランバーナ」の言葉の意味は、「懸倒(けんとう)」、即ち、逆さにつり下がっているという意味です。
 
その言葉の意味を死後、地獄や餓鬼道に落ちたなら、さぞかし逆さ吊りの苦しみに合っているに違いない。
 
迎え火を焚いてご先祖様をお迎えしてお供養申し上げようと、そのように解釈して始まった行事です。
 
 
がしかし、これはいわば「誤解からは生まれた美しい花」です。
 
 
お釈迦様は、夏安居(げあんご)といって、毎年弟子達と一緒に、夏(雨期のあいだ)の長期研修会をなさいました。
 
長い雨期の間森にこもってそれぞれに瞑想をしたり修行をしたり学問に励むのです。
 
その長く厳しい研修会の最後、戒律には八月十五日と定められていますが、その最後の日を自恣(じし)といって、自分を見つめ直す日、『懺悔・反省」する日と定められておりました。
 
長い期間の修行も学問も、ひょっとして気付かぬうちにうぬぼれや高慢(こうまん)の種になってはいないか。
 
いやもっと、わたしたち日常生活、自分自身のひっくり返った生き方をしてはいないのかと、時々刻々、反省、懺悔するのです。

 
「ものごと逆さに見たり考えたりしているのではないか」
 
その 「自恣」の戒めが「ウランバーナ」だったのです。
 
 
 
ひっくりがえった、独りよがりのものの見方をしていないか。
 
ひっくりがえった考えになっていないか。
 
それは他ならぬ、今の私の問題です。
 
 
お盆は、人事ではなく、私の人生の課題と向き合う日だったのです。