最近、「~させていただきます」と言うような、へりくだったものの言い方が気になってしようがない。
鳩山元総理以降、民主党の総理大臣達は、「させていただく」言葉を多用して、さも国民の立場に立っているかのような、遜(へりくだ)った言い方をするが、聞いいて、「心にもないこと言うな」と言ってしまいたくなる。
相手を敬って、自分は控えめなことをアピールしているように思えてならない。
謙遜(けんそん)したり、卑下する姿に好意を持って貰おうという下心が見えるようである。
以前、文藝春秋で、林望が『リンボウ先生「敬語」指南』と題して、敬語について書いている中で、
『「させていただく」を謙遜的傲慢(けんそんてきごうまん)だ。』
と言っている。
こういう言い方が政治家だけでなく、有名人の発言や、一般の会話にもよく聞かれるようになってきたが、如何なものか。
謙譲(けんじょう)をあらわす言葉が、謙遜(けんそん)の気持ちのない人によって使われすぎて、イヤらしく聞こえてしまう。
丸山才一は、
『「~いたします」を「~させていただきます」と言うのは、浄土真宗の門徒が、阿弥陀如来の尊い衆生救済のご本願に感謝して、江戸時代から使っていたもので、信仰心に基づいて「~させていただく」と使うものまで文句を言うつもりはないが、単に「何となく丁寧そうだから、門徒言葉を真似している人達は、聞き苦しいから止めて欲しい。』
と「桜のさよならの日本語」の中で述べている。
司馬遼太郎も、「街道を行く」の中だったかで、
『「させていただきます」は、すべて阿弥陀如来のおかげと言っていた近江商人がよく使った商業敬語である。』
と述べている。(近江商人は浄土真宗の門徒であった)
即ち、「~させていただく」という言葉を使うにしても、そのベースになるもの(この場合は信仰心)が大切なのである。
うわべだけで、誠意が感じられない言葉は、耳障りで鼻持ちならないものである。
うわべだけで、誠意が感じられない言葉は、耳障りで鼻持ちならないものである。
【註、浄土真宗は親鸞の教えで、門徒達は、自らが阿弥陀如来の慈悲の中で生かされていて、その事を知ることにより心豊かな生活が出来、やがてはその慈悲と同化していくことが出来るというのである。だから、何もかも、「おかげさまで」と理解し、「~させていただきます」と宗教的な喜びを表現するのである。】