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最近の多忙な中、時間を忘れて一気読みしてしまいました。
 
五木寛之著 『晴れた日には 鏡をわすれて』 です。
 
 
ここ数年、五木氏の講演を数回にわたり聴く機会をめぐまれていました。
 
氏が熱く語られていたのは、「格差、リストラ、派遣切り、自死等の混沌たる現代に、何故今、ドストエフスキー、小林多喜二著の「蟹工船」、親鸞が注目されるのか。」という点でありました。
 
そして、「現代の諸問題を解決しうるのは、先のものでしか有り得ない。」とまで語られていたと思います。
 
 
そんな中この度、1995年に出版された 『晴れた日には 鏡をわすれて』 を加筆修正して、初版第1刷として新たに出版されました。
 
今更とも思える改訂新版に五木氏のどういった意図があるのであろうか、興味深く読んでみたのです。
 
 
内容は、ブスが、完璧な形成手術を受け、特殊な方法で知識と教養を身につけ、数カ国語を操れる超ステキな女性に作りかえられた。
 
ブスは性格がよく、美人は性格が悪い、なんて慰めに過ぎない。
 
容姿は人生をこんなにも変えていくという不平等。
 
たかが容姿、ほんのわずかな肌の隆起やバランス。それなのに、それは思った以上に自分の人生に大きな影響をもたらしていく。
 
知らぬ間に容姿による差別が生まれてしまう。認めたくはないけど、それは事実だ。
 
そして、そこで得られたものは。又、何を失ったのか。
 
 
物語は、アップテンポに小気味よく展開していく。
 
 
容姿の生来の美醜に、生来の不平等と感じていた。そして、醜を捨て美を得ることが出来た。
 
しかし、「そのことは自分が差別される側から、差別する側に移ったことなのかもしれない。」と主人公はつぶやく。
 
そして、ドラマラスなラストシーン。
 
 
 
美しくて性格が悪い女性と、醜くても性格がいい女性、どちらを選びますか?又、どちらが好まれますか?
 
「美声も、美貌も、自身が努力して磨いて得るものだ。」って云われますよね。
 
しかしそれらは、天性の土台の上で磨かれて光るものなのです。
 
「玉磨かざれば光なし。」ともよく云います。
 
しかしそれは、元々玉であるから云えるのであって、石ころはいくら磨いても光はしないという残酷な真理が隠されているのです。
 
 
そんな厳しい現代社会を生き抜かねばならないときに、真の平等は何処にあるのか。
 
そんな先にあるのが、そこに見えてくるのが、ドストエフスキーであり、『蟹工船』であり、親鸞と云うのであろうか。