死刑制度廃止の立場であった千葉景子法務大臣がいきなり2人の死刑執行を許した。
その決断の背景には、我々には察することが出来ない状況があったに違いないが、ともかく、彼女にとっては、苦渋の選択であった事であろう。
現在、内閣府の世論調査では、死刑を容認する人が、過去最高の85.6%もある。
いささか、感情論が先行しているようで、危ない状況を感じずにはおれない。
ところで、日本には、死刑のない時代があった。
弘仁元(810)年、平城上皇に特別可愛がられていた藤原薬子(ふじわなのくすこ)が、兄藤原仲成らとともに、一度退位した上皇を再びその位就かせようとたくらみ、又、平城京への遷都を企てたのであるが失敗に終わり、藤原仲成が死刑(射殺)に処せられた。
(しかも現在では、この処刑も法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている。)
その後死刑はなく、次の死刑は、保元一(1156)年7月、平忠正と源為義の斬罪(ざんざい 首をきる刑罰)が執行された。
実に346年ぶりの死刑復活であったのである。
即ち、日本では、350年近く死刑が執行されなかったのである。
今後、権力者が死をもって償(つぐな)わせる死刑制度は、もっともっと議論を要する重大な国民的テーマである事は今更言うまでもない。
その決断の背景には、我々には察することが出来ない状況があったに違いないが、ともかく、彼女にとっては、苦渋の選択であった事であろう。
現在、内閣府の世論調査では、死刑を容認する人が、過去最高の85.6%もある。
いささか、感情論が先行しているようで、危ない状況を感じずにはおれない。
ところで、日本には、死刑のない時代があった。
弘仁元(810)年、平城上皇に特別可愛がられていた藤原薬子(ふじわなのくすこ)が、兄藤原仲成らとともに、一度退位した上皇を再びその位就かせようとたくらみ、又、平城京への遷都を企てたのであるが失敗に終わり、藤原仲成が死刑(射殺)に処せられた。
(しかも現在では、この処刑も法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている。)
その後死刑はなく、次の死刑は、保元一(1156)年7月、平忠正と源為義の斬罪(ざんざい 首をきる刑罰)が執行された。
実に346年ぶりの死刑復活であったのである。
即ち、日本では、350年近く死刑が執行されなかったのである。
今後、権力者が死をもって償(つぐな)わせる死刑制度は、もっともっと議論を要する重大な国民的テーマである事は今更言うまでもない。