
それほど、仏教は人々の中に、しみ込んでいたのです。
古典芸能も、又しかりです。
講談、浪花節、語り等の大衆芸能はみな仏教のお説教がそのルーツだと言われています。
特に、落語はそれがが顕著です。
古来、説法の極意は「始めしんみり、中おかしく、終わり尊く」という構成だとされています。この中の「中おかしく」だけが独立して落語が成立したとも言えるのです。
一時の漫才、落語ブームのときはすごかったですね。何処のチャンネルでも寄席舞台をやっていましたからね。
それがずっと続くと、流石にネタがなくなって、同じネタばかりをやっていました。でも、何度聞いても、落ちが解っていても、同じところで笑ってしまったものです。
古典落語は、特に台本があるのもですから、同じ話を何度聞いても笑ってしまいます。
又、同じ古典落語でも、演者によっても、内容が同じでも、おかしさが違って、又いいのです。
CDになると、何度聞いても面白いものです。
ところが、お説教は少し違うようです。
説教をする側は、同じ話をすることをタブーと思い込み、毎回違った話をしなければならないと思い込んでしまっているのです。
その結果、気負いとなり、プレッシャーを感じてしまうのです。
しかし、聞いている側は、前に聞いた話をもう一度聞いて、又感動したいって思っているかもしれません。
昔の節談説教には、台本があり、演者はそれを丸暗記にして、何度も何度も同じ話を繰り返し演じたのです。だからこそ、聞く側は、難解な経文までも宙にしてしまっていたのです。
その事を、「仏様の教え(お慈悲)が、毛穴からしみ込む。」と、表現したのでした。
世の布教(説教)使達よ、同じ話をすることを恐れる事なかれ。
何度も何度も同じ話をして、聞くものが「又あの話か。」と宙にしたとき、やっと言わんとすることが相手に伝わったのだから!