去年の暮の28日、母は父と愛恵がいる向こうの世界へ逝ってしまいました。

バタバタと29日に通夜、30日の葬儀と済ませました。

喪主を務めた弟も31日に東京へ帰って行きました。

思えば、母は私達の事を考えて年内に終わるようにして考えてくれたのかも・・


今週の木曜日は四七日のお逮夜です。

母が亡くなって三週間がやっとすぎました。

10月2日に入院して、食事が全くとれない状態になった時には

もう、いつどうなってもおかしくないという状況でした。

母は、最後までしっかりとしていました。

11月16日に日赤から転院した医院でも、テレビを見るのは頭が痛くなるからと嫌がり、

俳句の本を読みたいからと言うので、何冊か持って行ったものの

何ページかを見ていたけれど、結局は本を持つ手も力が入らず

頭が痛くなるからとそれ以来読むことはなくなりました。

一人では身体を動かす事もできず、数時間おきに体位変換をしてもらい、

トイレには行けなくなったので、オムツをしていました。


2人部屋だったけど、もう一人の方とは全くしゃべる事がなかったの

時々部屋にくる看護師さんか毎日行っていた私と話すぐらいしかありませんでした。

情報といえば、病室の壁にさがっていたカレンダーと枕頭台に置いている時計。

その二つも、体位変換の向きによっては見えない事もありました。

寝たきりの状態であっても、頭はしっかりしていたので、

オムツになった事を母にとってどんなに思っていたのでしょう。

食事が取れないので、点滴で栄養を入れていたので、尿量は半端ないほどの量でした。


私が行くのは、毎日午後2時前後。

母は私が行くのを毎日待ちわびていたようでした。

私が帰るときには必ず

「今日はありがとう。気をつけてかえりよ。明日は何時に来るん?」

と聞いていました。

私が病室のドアを開けると

「ああ、もうすぐ2時になるから洋子が来る時間だなぁと、思っていたんよ。」

と毎日のように言っていました。

最初の頃は、その言葉をそれほど思うことはなかったのですが、

12月に入って、ますます身体を動かす事が困難になり、あちこちを痛がるようになって

時々オムツを替えたり体位変換の手伝いをした時にあまりに痛がるのをみて

母の切なさが胸に痛くてたまらない時がありました。

「退院したら、私はどこに行けばいいん?」

と言うので

「歩けるようになるまで私の所にくればいいやん。まだ一人では無理やろ~」

と答えていました。

食事ができない母が一度

「ああ、ニガウリのこねりが食べたい・・」と言った事がありました。

ニガウリが大好きな母で、そのニガウリを使った大分の郷土料理のこねりを食べたかったのです。



12月25日の夜中に血圧が下がり26日の早朝に安定したのだけど、

腕からの点滴が詰まって、薬剤が入らなくなり、その医院の院長先生の決断で

再度日赤に転院しました。

その事を母に告げると、ずっと見てくれていた日赤の先生の所へ戻ると知って

母は少し安心したような顔をしていたのを思い出します。

その医院の院長先生も看護師さんも本当に良くしてくれていました。

しかし、ちいさな医院ではできることに限りがありました。

日赤に戻る時、看護師さんたちが

「小さい医院だからしてあげられない事が多くてごめんね。」

と、言ってくれたのはなんだか切なかったです。


その日、日赤に戻ると病棟の看護士さん達が

「お帰り~~」と言って迎えてくれたのは、母には嬉しかったようです。

その日は意識もあり、血圧も正常に戻っていたのですが、

主治医の先生は、

「もう痛い事はさせたくないから・・」と、言いました。

それは、もう母がそれほど長くはないと言うことでもありました。

27日の夜10時過ぎ、日赤からまた血圧が下がり呼吸も不安定になっているからと電話が入り

同時に、会わせたい人がいるなら連絡を・・とも言われました。

優貴に連絡をし、主人と病室へ行くと母の意識は混濁し、血圧も呼吸も不安定な状態でした。

夜中にも関わらず、優貴と佳代ちゃんは虎太郎龍之介、瑞希を連れて来てくれました。

みんなで暫く母の傍にいたのですが、だんだんと血圧も呼吸も落ち着き始め、

2時過ぎにみんなには帰ってもらい、私が付き添うことにしました。

年末で日赤は27日が仕事納めだったけれど、主治医の先生はずっと詰めてくれていました。

28日の朝早く、母の血圧も呼吸も殆ど正常に戻ってきたので

主治医の先生も私に、家に帰ってもいいよと言ってくれました。

25日から殆ど毎日病院にいたので、年末の大掃除もできていなかったので

家に帰り朝食を食べ、主人と掃除を始めようとした矢先、再度日赤からの電話でした。

10時を少し廻っていました。

わが家から日赤まで約30分ぐらい。優貴にも再度連絡。

病室に着いた時にはすでに母は息を引き取った後でした。

私達が着く、ほんの数分前の10時25分でした。


主治医の先生が日赤に赴任してきて8年。ずっとお世話になっていた母。

何度入院した事か。身体中、心臓カテーテルも、骨折したり、痛い事ばかりで

先生がよく、「生きてるのが不思議なぐらい」と笑って言っていた事もありました。

最後の入院の時、胃ろうも食道ろうもできな事が分かって、腸ろうにせずに

中心静脈から栄養を入れることに決めた時、先生は

「中村さんはこれまで痛い思いをたくさんしてきているから、これ以上するのは本当にかわいそうです。

それに、もうそんなに長くはないと思います。」

と悲しそうに言っていました。

だから、その先生に最期を看取って貰って母は嬉しかったのかもしれません。


年が明けて病棟へ挨拶に行った時、先生が

「いろんな事があったけど、最期を看取る事ができて良かったです。」と言ってくれました。


母が一人で住んでいた実家は、母が入院する前のままの状態です。

母は年をとってからはあまり掃除をするのがダメで、私が行くたびに片づけと掃除をしていたけれど、

そのたびに大量のごみが出ていました。

それが、最後の入院前には、二階にある父の仏壇にご飯をお供えすることすらできなくなっていて

掃除機を使うことはもちろん、ゴミ収集の日にゴミを出す事すらできなかったようでした。

食事を作る事も殆どできず、総菜を買ってきたりしていました。

キッチンには洗い物が溜まっていたし、洗濯機には着替えた服が入ったままだったし

お風呂はいつ入ったのか水が張ったままでした。

そんな事もあって、入院する前の週に、掃除を食事の用意をしてもらうために

ヘルパーさんに入って貰うこととヘルパーさんが来ない日はお弁当の配達をしてもらう契約を

したばかりでした。

わが家に来なかったのは、大好きはデイサービスに行くには、

わが家ではお迎えが来てくれないからでした。

2年前に脳こうそくで入院して退院後わが家で一緒に生活していたのですが、

半年を過ぎた頃、やはり住みなれた家がいいし、まだ一人でなんとか生活できるからと

帰って行った事がありました。

父がなくなってずっと一人暮らしをしていた母は、その気楽さもあったのかもしれません。

わが家にいれば、どうしてもどこがで遠慮もあったのだと思います。

私が夜ボウリングの練習に行く時も、遅くなるから先にお風呂に入って寝ていてもいいから、

と言っても、かならず起きて待っていました。


今になって、思います。

お寺さんの事や、ほんの些細な事が分からなくてそれを聞きたくてもその相手である母がいないこと。

ああ、もう誰に聞く事も出来ないんだなぁと。

いつもは分かる事がなんだか不安で、それを確かめたくてもその相手がいないこと。

母が入院中は思いもしなかった、誰もいなくなった狭い実家が冷たくて寒くて広いこと。

どこに何をしまっているのか、どこに何があるのか、何も分からないこと。


妹は福岡、弟は東京にそれぞれ住んでいて

私が一番母の近くにいたのに、本当に何も分からないのです。


入院直前の掃除も片づけも何もできていない状態の母の居室にいると、

こんなところに母はしゃべる相手もなく一人でいたんだと息が苦しくなってしまいます。

そんな家で母は毎日何を思い何を考えていたのでしょう。

人前ではいつもポジティブだった母だけれど、こんな部屋の中で

たった一人でどんなふうに食事をしていたのだろうと思います。

キッチンにあるインスタントのスープやみそ汁も賞味期限が過ぎたものもあり、

調理をした形跡は殆ど残っていませんでした。

時々、私が作ったものを届けていたのですが、それも全部食べる事ができず

冷蔵庫の棚の奥の方へ入ったままになっているものもありました。


それでも、私にはそれを悟られるのが嫌だったようで、

時には私を家に入れたがらない時もありました。


気の強い人だったので、そうなった自分を娘の私に知られるのは

プライドが許さなかったのかもしれません。

時には私が家に上がると、黙って掃除や片づけを始めるのも

自分が掃除ができていないのを思い知らされるのが嫌だったようです。


後悔というのは、こんな事なのかもしれません。

いなくなってから思うのが後悔なのかもしれません。

取り返しのつかないことが後悔なんだと思います。


愛恵がいなくなった時とはもっと違う思いです。


母の晩年の生活は、近い将来の私の姿なのかもしれません。