自分が大光工房に入ったのは、2011年3・11が過ぎ去った余韻も冷めない4月の初め。
そこには、伝統工芸士でもあった市原達雄氏が長年の紙漉きの中から築き上げた、落水紙や、紅葉入りの和紙、障子紙、賞状用紙、染め紙と多彩な紙を作っていた。
田舎暮らし、自給自足に憧れと期待を持ち美濃に住み着いた自分は、伝統工芸である美濃和紙の職人の道へ進むことを決めた。
自然の中で山々や地形からくる恵みの井戸水を使い、紙を漉く。
とても魅力的で、培われた技術や生活感にも感動した。
ただ、自分がその道を進めば進むほど矛盾や違和感を感じていった。
というのは、楮(紙漉きの原料)を大釜で約40kg一気にガスバーナーと化成ソーダ(とても強い薬品、粉末が目に入ると悶え、手に触れればヌルヌルが洗っても洗っても取れない)
で煮塾し、その後大きな晒し場で大量の水を使ってアク抜き、原料をそこから揚げたあとは、もう一度大量の水を晒し場に溜め、次亜塩素酸ナトリウム約20lと少量の硫酸を入れ(その時有毒ガスが発生し、倒れた職人もいたとか)
そしてその水と液体は川へと注がれた。
その後、もう一度水で十分に楮から薬品を取り去るべく大量の水を使い、楮そのものにしていく。
真っ白。
本当に綺麗さっぱり真っ白。
本来楮というものは、植物で(桑科)木の樹皮の黒皮、その下の甘皮、そして白皮という構造になっている。
その黒皮、甘皮、白皮部分を化成ソーダ、硫酸、次亜塩素酸ナトリウムといった薬品で柔らかくし、アクを抜き、溶かし、漂白する。
和紙って。
過酷。
白さを出すのにこんなことするの!?
という感じだった。
それを月に2回3回とこなしていった。
その楮を今度は、クレゾール(触ると痛い、そしてものすごく薬品臭がある)という薬品につけられたねべし(トロロアオイ 別名 花オクラ)
と混ぜ合わせ漉いて紙にしていった。
落水紙一枚120円。
大量生産しなければ元が取れなかった。
なのでちりとりという工程を薬品で真っ白にしてすっ飛ばす。
今日SDGSが騒がれているが、果たして白い紙を使う事に対して考えが及ぶ人達が一体どれくらいいるのかとたまに思う。
その当時は、機械紙や洋紙と比較され高いだの、チリが入っているだのと言われていた。
1300年。
美濃手漉き和紙の歴史だと言われる。
一体どこからそうなってしまったのか。
早さと安さを求められ。
単純に人間は機械ではない。
人間は、同じものを寸分の狂いなく同じものを作ることはできない。
100枚漉いて、ヤレもなく、同じ厚さで、同じクオリティーで紙を漉ける人に今のところ出会ったことはない。
当たり前に余分に漉いて選別し出来る限り同じものを揃えている。
安さと早さを求めるなら機械で漉いた紙にすればいいのは、当たり前の事実。
一人の人間が一年間で漉く紙を機械では、一日もかからず漉くことが出来る。
では、手漉きや、手で作ることがなぜ存在するのか?
手漉きでしか出せない味わいがあるから、人間にしかできない創造性があるから、小回りのきくところ、希少性、長期保存の観点、ネームバリュー、ドラマ、歴史、文化財、色々と考えられる。
ただ混在していることももちろんある。
その時に歪みが生まれる。
手漉き和紙を知らないことによる誤解とズレ。
職人が1日で漉く紙をいきなり100枚から500枚にすることは出来ないし、いきなり魔法のようにすぐさま紙を生み出すことは出来ない。
そんな仕事を自ら選んでいて、言い訳みたいだが、
歩いてインドまで3日で行けと言われても行けるわけがないのはわかると思う。
出来ないということは極力言いたくない自分であるが、無理なものは無理なのだ。
だから住み分けていくこと、理解していくこと、好きな人と一緒にいること、好きなことをして生きること。
一年待ってくれる人もいれば一ヶ月も待てない人もいる。
自分もアマゾンプライムで明日までに〜〜ってポチってするのは沁みるほど分かるんだが。
早さ、安さを求めることにはそれなりの代償が伴うということ。
企業努力によって補われることは多々有る部分もあるのだが、そしてそれが利益を生み出す部分で有ることも分かっている。
ただ私は、千田崇統であって心を亡くし、家族を犠牲にし、朝の3時から夜の21時まで、1日と15日だけ休むことが出来ることをするつもりもない。
と言いつつワラビーランド始まりどんだけ連勤術師やねん状態だが(笑)
ただ日々を楽しく、心からやりとりが出来る人達と仕事をし、自分なりの進化と成長をし続けたいと思う。
出来ることを淡々とするのみ、出来ないことは出来ません。
本来の自分自身、正直な自分自身でいると、好きなことと嫌いなことが物凄くはっきりしてくると思う。
あー金木犀よ。大好きだよ。
千田崇統