私は、退職するまで、学生として、あるいは教員として関わった大学は6ある。学生として関わったのは名古屋大学と神戸大学だが、神戸大学は大学院生という学生の立場だけではなく、のちに教授になり教員としても関わった。これまでの人生のほとんどは、キャンパスをうろついていたことになる。

 

大学は研究する、勉強するには良い環境を提供していることは間違いない。私にとってはありがたい場所だった。名古屋大学と神戸大学ではほとんど授業料を払わなかった。免除されたのだ。二つの大学とも奨学金をもらった。名古屋大学では年間15万円程度だったか、神戸大学は大学院生だったので、月々7万円ほどもらっていた。その後、大学教員になったために、そのほとんどが返済免除になった。

 

私は、大学教員として働いたために、人生を楽しむことができた。研究が好きだったからだ。それを楽しむためには、知識に裏付けられた研究能力が不可欠であり、それを身につけたのも大学だった。

 

私の勉学費用は国家からの多大な支出によってまかなわれた。それは元をただせば、国民が働いて稼ぎ、しはらった税金からまかなわれたものだ。国家、国民に大きな感謝をしなければならないと思っている。

 

ただ、私もその感謝に応えるために必死に研究をし、必死に学生に教え、成果を出し国民の負託に応えたと思う。退職した今、その自分の努力がどこまでのものだったのかは判断し難いが、まあ、皆様には理解をしていただきたいと思う。

 

その上でだ、ここからが本論になるのだが、今の大学とはなんだろうかと思う。簡単に割り切れば、この時代、普通に勉強したいと思えば、ある意味、どこの大学でもできる。図書館は全国ネットワーク化されているし、インターネットもある。トップクラスの大学でも、地方の名もそれほどしれない大学でも、優れた教員は同じようにいる。いまどき、大学教員の色はそれほどないので、都市、地方にかかわらず、職があれば、その職を得たいと思う優れた教員は少なからずいる。

 

ただ、最先端の微妙な研究をしたい時には、それにふさわしい大学に入るべきだと思う。教員だけではなく、研究環境がモノを言うからだ。それでは、それほどの最先端の研究や、微妙な研究をしたいと思う学生がどれほどいるだろうか。あえて、その数は少ないとは言いたくない。たくさんいるだろう。しかし、そう言うものを求めているとは思えない学生がたくさんいることは肌で感じてきた。

 

私が最も長く教員として過ごした上智大学はとても優れた大学だった。研究環境も教員も学生も、優れていたことは間違いない。ただ、私が大学生になるとかならない頃は、上智大学は、あることは知っていたかもしれない、特徴ある大学だと思っていたかもしれないが、それだけだったと思う。自分が教師として上智大学に来る頃には大きく変わってしまっていた。その変容の大きな側面の一つが、大学のブランドの変容と見ることはできるだろう。それが中身がないと言う意味では全くない。逆に、ブランドの変容が、一層の大学の質の向上につながっている面もあると思う。

 

自分の大学に述べたところで、大学一般が、ブランド価値を持っている。大学のブランドか戦略といのはとても大事なのは言をまたない。しかし、ブランドとその実質というのは表裏一体ではない。ブランドはあくまで、社会の受容性や評価、認識、イメージと関連している。

 

学生はそのブランドを自分のものにしたいと思い、大学に来ることもあるだろう。その割合は大きいような気もする。また、それはそれでも良い。というか、そういう時代になってしまったのだ。少子化で入学者人口はこれからも減り続ければ、さらにこの側面が重要な意味を持ってくることもあるだろう。

 

そうなると、それを受け入れざるを得ない。また、それでよいのだ。