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神との対話 ニール・ドナルド・ウォルシュ

「私たちが教えられて来た神についての真実は、あなたからきたものですか?」

今まであなたがたが教えられて来た、神についての真実、指導者、ラビ、僧侶、聖書は権威のある根拠ではない。

権威あるものは、自分の感情。

自分の最高の考えに耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。
教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうをわすれなさい。

言葉は真実の伝達手段として、一番あてにならない。

「あなたの姿を、疑いの余地のない現れ方で見たい」

私は何度も、何度も現れている。今もこうして現れている。

私には、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。私はどんなかたちや姿になることも出来るが、そうすれば誰もが、自分の見たかたちや姿が多くのなかの一つにすぎないとは思わず、それこそが神の唯一の姿だと思い込むだろう。
ひとは、「みえないもの」ではなく、見たものを私だと信じる。
しかし、私は偉大なる「みえざるもの」であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。
ある意味では、私ではないものすべて私なのだ。
私は「私でない」ところからやって来たのだし、常にそこへ戻っていく。

神は外からわかるかたちで、あるいは外界の現象を通じて出現するのではなく、そのひとの内的体験を通じて姿を現すのだから。内的体験を通じて現れるなら、外から見える姿は必要ない。

神が啓示されていれば、神の啓示を求めるはずはない。

「欲しいものを求めることは出来ないのか?」

あなたは求めるものを手に入れられないし、欲すると言えば、まさにそのこと--欲すること--
を現実に体験することになる。

正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である。

現実に体験したいと考えることを前もって感謝するというのは、願は叶うと認めること。

感謝とは神を信頼することだ。

「何かについて前もって神に感謝したのに、それが実現しなかったら?」

感謝は神をあやつる手段ではない。
宇宙をごまかす仕掛けではない。
自分の心はごまかせない。

口では感謝しますと言いながら、内心、願いが満たされていないと信じていたら、神はもちろんあなたが信じるとおりにする。

神はあなたの知っていることを知っている。
あなたの知っていることは、あなたの現実になる。

神との対話 ニール・ドナルド・ウォルシュ

わたしはすべての者に、つねに語りかけている。

問題は誰に語りかけるかではなく、誰が聞こうとするか、ではないか?

「語る」ではなく「コミュニケート」
言葉には制約がある。
言葉はただの音にすぎない。シンボル、サイン、しるし。

感情を通じたコミュニケート。
感情は、魂の言語だ。

皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。


わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。
それ以外は別の源から生じている。


喜び、真実、愛。
入れ替えることも出来るし、互いにつながりあっている。

どのメッセージが私のもので、どれが他からのものかを見分ける指針がはっきりすれば、あとは私のメッセージに耳を傾けるかどうか、それだけだ。

私は強制はしない。おどすこともない。
私は自由な意志と選択する力をあなたがたに与えた。それを奪うことは決してない。


すべてのひとは特別であり、すべての時は黄金である。

自分で神のメッセージを聞く責任はないと思っている。特別な人が聞いていて、その人達の言っているを聞いているのだ。
それを聞いていれば、自分で考える必要はなくなる。
大半の人が私のメッセージに背を向けている最大の理由はそこにある。

だが私は今、新しいかたちのコミュニケーションへ、あなたを導く。この方法へ導いたのは、じつはあなたのほうだ。
わたしがいま、こうしてあなたのもとを訪れたのは、あなたの呼び声に応じたからだ。


神の声が間違っていると思うときには、とくに耳を傾けるべきだ。なんでも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。

あなたが「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だ。

前進するには、「わたしが『間違っている』と思ったすべてが本当は『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。
すぐれた科学者は研究がうまくいかないとき、すべての前提を捨てて、一からやり直す。
偉大な発見はすべて、「正しくない」ことを恐れない意志と能力によってなしとげられた。

あなたがたが自分の真実を語るのをやめなければ、私の真実をあなたがたに語ることはできない。