T H E C H R I S T I M P U L S E
中に立つ者
── キリスト衝動と、天人地の人
われならず、わが内に
世界樹の三層構図 衝動篇
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✦ 承前 ── 中央に、何があるのか
三才篇で、天地の間に立ち、通し、成す人――天人地の一語を扱いました。そこで挙げた「カン」の八字――冠・幹・管・感・観・咸・環・完――が、本稿でもう一度、別の光の下に置かれます。
本稿は衝動篇。ルドルフ・シュタイナーの人智学が、その中央の位置に据えたもの――キリスト衝動(Christus-Impuls)と、天人地の人とを照合します。
あらかじめ断っておきます。本稿は特定の信仰を勧めるものではありません。ひとつの思想体系が「中に立つ」ということをどう描いたか――それを、東アジアの三才思想と並べて観る作業です。記述はすべて、その体系の説くところとして扱います。
❖ 一 衝動であって、教義ではない ❖
まず、語の性格から。シュタイナーが用いたのは「キリスト教義」でも「キリスト信仰」でもなく、キリスト衝動という語でした。ドイツ語の Impuls――押す力、動きを与えるもの。
彼は繰り返し述べました。これは教えではなく、出来事である。学ぶべき内容ではなく、人類の内で働いている力である。したがって、特定の宗派に属する人だけのものではない――と。
キリスト教は教説としてではなく、
事実として世界に入った――
そうシュタイナーは説きました。
この区別は、本連載にとって重要です。三才の人もまた、教義ではなく位置でした。――三才篇にこう記しました。「参贊が指すのは観照者ではなく、参与者です。天地の運行をただ理解する者は、まだ三才の人ではない。加わって、はじめて人になる」と。
衝動と参贊。どちらも、知ることではなく、加わることを求めます。
❖ 二 天が、地へ降りた ❖
シュタイナーは、地球の進化の中心にひとつの出来事を置きました。ゴルゴタの秘蹟。そしてそれを、時の転回点(Zeitenwende)と呼びます。
彼の説くところでは、その存在は太陽的な領域から降下し、ひとりの人間の内に入り、そして死を通って地球そのものと結ばれた。以後それは、天の彼方にではなく、地球の内に働いているとされます。
――ここで、三才の三語がそのまま当たります。
天が施し、地が承け、
その間に立つ人が、両者を成就させる。
天の側から降り、
ひとりの人間を通り、
地に結ばれた――
三才の構図が、一度きりの出来事として演じられた
とも読めます。
注意すべきは、その方向です。地から天へ昇るのではなく、天から地へ降りている。シュタイナーにとって下降は失敗ではありませんでした。分離がなければ他者はなく、他者がなければ愛はない。――ならば、最も深く降りることが、最も大きな働きになる。
この運動を、本連載の語で言えば「啓き」です。根源から物質へ。そして降りた先で、地そのものが変わる――カバラーの語で言えば、ティクンの極まった形と言えます。
❖ 三 「われならず、わが内に」── 管 ❖
シュタイナーがキリスト衝動の要として、繰り返し引いた一句があります。パウロの言葉です。
❝
われ生くるにあらず、
わが内に生くるなり
❞
主語が、静かに移っています。「私が」ではなく、「私を通って」。――階梯篇の第二の符合で、こう記しました。「下の段の主語は『私が』です。ところが上の段へ進むにつれ、主語は静かに解けてゆきます。ついには、大いなる働きが私を通過してゆく」と。
そしてひらき篇では、幹に立つ人を無私の導管と呼びました。三才篇の「カン」の八字では、管――詰まりを払い、光を通す――がこれに当たります。
✦ 同じ一点を指す、三つの言い方
無私の導管 ―― 器を空けて、通す(本連載)
管 ―― 詰まりを払い、光を通す(三才・カンの字相)
われならず、わが内に ―― 主語を明け渡し、通す(キリスト衝動)
三つとも、同じ位置を語っています。持つのではなく、通す。作るのではなく、明ける。実践篇に記した「器を磨くことは、光を作ることではない」――その一句が、そのまま重なります。
❖ 四 三つの動詞との照合 ❖
三才篇で、天人地の人に三つの動詞を畳みました。立つ・通す・成す。これを、キリスト衝動の側の語彙と並べてみます。
✦ 三つの動詞、二つの語彙
| 動詞 | 天人地の人 | キリスト衝動 |
|---|---|---|
| 立つ | 天地の間に。 天でも地でもない位置 |
二つの偏りの間に。 上へ逸れる力と、下へ固める力の中央 |
| 通す | 己を透かし。 無私の導管・管 |
われならず、わが内に。 主語の明け渡し |
| 成す | 天地の交わるところに。 化育を賛(たす)く |
教説ではなく事実として。 地そのものが変わる |
立つについて。中央とは、二つを薄めて足して二で割った地点ではありません。両方の力が最大で働いている場所で、倒れずに立ち続けている状態です。
三才篇はこれを、欠如ではないと言いました。「人は天ではありません。地でもありません。しかしそれは欠如ではない。両者を通わせうる位置だからです」――中央は、二つの不足ではなく、二つを担いうる唯一の場所なのです。
~ 人・キリスト衝動 ~
❖ 五 誠 ── 与えられたものを、受けられる形に ❖
ここが、本稿で最も精度の要る箇所です。三才篇は、参贊の条件を『中庸』の誠に置きました。そして、その非対称を指摘しました。
誠なる者は天の道なり
これを誠にする者は人の道なり
天はすでに誠である。人は、誠にする必要がある。差はそこだけ――三才篇はそう書きました。そして実践篇に照らして、日々のクリヤリングとは、この「誠にする」の一形態にほかならないと。
キリスト衝動の構造は、これと同型です。シュタイナーの説くところでは、その働きはすでに与えられている。人が起こすものではない。しかし――
それは、決して強いない。
上へ引き剥がす力も、下へ固着させる力も、
人を掴みにくる。
中央にあるものだけが、
人が自ら明けるのを、待つ。
なぜなら、強いられた愛は愛ではなく、
強いられた帰還は帰還ではないからです。
ゆえに自由が要になります。シュタイナーが哲学的主著を『自由の哲学』と題したのは、偶然ではありません。与えられているが、受け取るのは自由な行為でなければならない。
これは自力とも他力とも言い切れない位置です。光は作れない――その意味では他力。しかし器は自分で磨くほかない――その意味では自力。「これを誠にする」の「する」が、まさにその接点にあります。
そして参贊――加わって三となる。天地は人の参与を待っているという三才の構えは、対比篇で観たカバラーの「神は人間の行為を必要としている」と同じ論法でした。キリスト衝動もまた、その系譜に立ちます。働きは与えられているが、地上で実を結ぶには、人が加わらねばならない。
❖ 六 「カン」の八字と ❖
三才篇の八字を、もう一度並べます。受けて、立つ――冠・幹・管・感。応じて、成る――観・咸・環・完。このうち三字が、本稿の主題と特に強く響きます。
✦ 管 ── 通す
三章で観たとおりです。「われならず、わが内に」――主語を明け渡すことが、そのまま管の機能になります。
そして、この字が生態活動の相を持っていることに、少し留まりたいと思います。
シュタイナーは人体を、三つの系統として観ました。
✦ 人体の三分節
神経・感覚系(頭部) …… 最も静かで、上にある。受ける座
リズム系(胸部・呼吸と循環) …… 上下のあいだ。通す座
代謝・四肢系(腹部・手足) …… 動き、掴み、地と交わる。成す座
頭は天へ、四肢は地へ。そのあいだにあって両者を繋いでいるのが、呼吸です。――三才の三語が、そのまま身体の縦の並びになっていることにお気づきでしょうか。立つ位置が頭ではなく胸にあるのは、ここから来ています。
そして息は、留まりません。吸ったまま留まることも、吐いたまま留まることもできない。入れたものは出し、出したところへ、また入る。持てば、たちまち苦しくなる。――持つのではなく、通す。
一日およそ二万回。管の働きは、比喩である以前に、胸のうちで絶えず実演されています。――「われならず、わが内に」とは、この呼吸を、生き方の全体にまで広げた言い方だと言えるかもしれません。
✦ 咸 ── ことごとくが、応じ合う
咸は、ことごとく・あまねく、の意。易では感応の卦であり、天地の気が交わり、すべてが応じ合う状態を指します。
シュタイナーがキリスト衝動を宗派に属さないもの、人類全体に及ぶものとして語ったこと――これは咸の字義とよく重なります。特定の教会に属する者だけでなく、その名を知らぬ者においても働きうる、と彼は説きました。
あまねく及ぶ、ということ。ここは、比較を試みる本連載の姿勢とも通じます。名が違っても、同じ一点を指していることがある――そう見てきたのですから。
✦ 完 ── 成し遂げられた
三才篇は八字の最後に完を置き、「天地の化育を賛(たす)け、成就する」と記しました。
福音書が十字架上の最後の一語として伝えるのは、「成し遂げられた」という言葉です。ギリシア語の一語――完了を告げる語。
偶然の一致でしょう。しかし、八字の連なりの終着に「完」を置いた構成と、出来事の終着に「成し遂げられた」を置く構成とが、同じ形をしていることは、記しておいてよいと思います。――成すとは、完了することでした。
ただし、ここに独特の含みがあります。成し遂げられたのに、なお人の参与が要る。――シュタイナーの説くところでは、出来事は完了しており、しかしそれが各人の内で実を結ぶかどうかは、これからの話です。完了しているものを、これから受け取る。『中庸』の非対称が、ここでも同じ形で現れています。
❖ 七 重ならない一点 ── 出来事と、位置 ❖
照応の見事さに惹かれるほど、差を確かめておく必要があります。最も大きな差は、時間です。
✦ 構造と、出来事
三才の人 … 位置である。歴史を持たない。いつの時代にも、誰にでも、同じように開かれている。
キリスト衝動 … その基点となる出来事が、以前と以後を分ける。だから転回点と呼ばれる。ただし働きそのものは、繰り返し受け取られうる。
これは、対比篇「五 最後まで重ならない一点」で観た差と、同じものです。カバラーには歴史とメシアがあり、インド側の解脱は原則として非歴史的でした。三才もまた、非歴史的な構造の思想です。天地は昔から天地であり、人はいつでもその間に立ちうる。
ですから、両者を等号で結ぶことはできません。できるのは、同じ「中に立つ」という一点を、一方は構造として、他方は出来事を起点として描いた――そう並べることまでです。
ただし、ここで取り違えを避けておきます。限定されるのは、出来事のほうだけです。シュタイナーは、その基点となる事件を繰り返されないものとして語りました。しかし――そこから働き出す衝動のほうには、回数の限りがありません。
むしろ逆で、一人の生涯のうちに、幾度でも起こりうるとされます。五章で観たとおり、それは強いず、人が自ら明けるのを待つのでした。ならば――明けるたびに、通る。一度で終わるものであれば、待つ必要も、日々払う必要もありません。
出来事は一度、働きは何度でも。
もっとも、この差は補い合う形にもなります。構造だけでは、いつ始めるのかが分からない。出来事だけでは、なぜそこなのかが分からない。位置を知って、はじめて出来事の意味が読める。出来事を知って、はじめて位置に立つ動機が生まれる。――対比篇で「二枚を重ねると幹が現れる」と書いたことと、同じ構えです。
✦ 三つの留保
- ✧ 信仰の勧めではありません。本稿はキリスト衝動を、ひとつの思想体系の説くところとして扱いました。事実の主張としてではありません。
- ✧ これはシュタイナーの読みです。キリスト教の主流的な神学が同じことを述べているわけではありません。人智学独自の解釈が多く含まれます。
- ✧ 照応は、同一化ではありません。三才は儒学の、キリスト衝動は近代西洋秘教の言葉です。似た形を見出すことと、同じものだと言うことは、別のことです。
❖ 結 待たれている、ということ ❖
本稿で観てきたことを、畳んでおきます。
それは、教義ではなく衝動だった。
知ることではなく、加わることを求める。
――参贊と、同じ構えである。
それは、天から地へ降りた。
昇ることではなく、降りることによって
天地を通わせた。
――啓きの、極まった形である。
それは、主語を明け渡させる。
われならず、わが内に。
――管であり、無私の導管である。
そして、それは強いない。
掴みにくるのは、いつも左右の力である。
中央にあるものだけが、
人が自ら明けるのを、待っている。
最後の一点が、本稿の眼目です。中に立つことは、強いられません。――上へ逸れる力も、下へ固める力も、放っておけば人を運んでゆきます。何もしなければ、人はどちらかへ寄る。中央だけが、自分で立たねばならない場所です。
だからこそ誠にするという言い方だったのでしょう。天は誠である。すでに、である。足りないのは、いつも受け手の側の通り道だけ。――ゆえに、払う。ゆえに、器を磨く。作るためではなく、応えられるように。
そして、その通り道は息のように、絶えず入れ替わり続けているのでした。立ち続けるとは、絶えず立ち直り続けること。払い続けるとは、絶えず通し続けること。
三才篇は「名は、後から追いつく」と結ばれていました。先に位置があり、名は後から与えられる。――衝動と呼ぼうと、参贊と呼ぼうと、幹と呼ぼうと、指しているのは同じ一点です。天地の間に立ち、通し、成す。そこに立つ人を、それぞれの伝統が、それぞれの言葉で待っていた。
「 ~ 立ちて、通し、成す ~ 天地の間にあって 」
「 ~ 払いて、降ろす ~ 幹にあって 」
「 ~ 還りて、啓く ~ 宇宙樹にあって 」
T H E C H R I S T I M P U L S E