最近将棋の藤井聡棋聖が高校卒業目前で、将棋に専念するために退学をしたとのニュースが流れました。

 

後1か月余り、ことによると、卒業まで一切登校しなくても卒業させてもらえたかも知れないのに、退学を決めたその英断には拍手を送りたいと思います。

 

そういう藤井棋聖の判断をもったいないとみる向きもあるかと思いますが、それは普通の人の考えであって、世の中でうんと成功している人の思考は普通の人とは違います。

 

私は人間は何度も生まれ変わると信じています。藤井棋聖や一流のプロのスポーツ選手や芸術家などは、これまでの転生の過程で何度も努力して才能を磨いてきたのです。

 

これまでの転生で磨いてきた才能があり、自分自身、自信があるので、人から見れば、そんなことに人生をかけて無謀だと思えることに人生を賭けることができるのだと思います。

 

今の自分が興味を持っていること、それは前世からずっと興味を持っていたことの可能性が高いのではないでしょうか。

 

魂が一つの分野を磨いて最高のレベルにまで高めようとしているのです。

 

そして、魂が最高のレベルにまで達した時、別の分野を磨く道に入ることもあるのではないかと思います。

ある程度年を取ってからから急に新たな分野に興味を持つということもあると思います。

 

例えば誰かが80歳を過ぎてからピアノの練習を始めるとすると、恐らく多くの人は、もう80歳なんだから今更練習しても無駄だから、温泉にでも入ってゆっくりしてる方がいいんじゃないのなどと思ってしまうのではないでしょうか。

 

確かにこの人生では、大したレベルに達しないでしょう。でも、今生で少しでも練習したというその努力は来世で活かされるのだと思います。

 

論語の「後世畏るべし」という言葉は有名です。若者は年配の者をどんどん追い抜いて行ってしまうので期待すべきだという意味ですが、その後に続いて「四十五十にして聞こゆるなくんば、これまた畏るるに足らざるのみ」と言っています。

 

確かに若者は未知数でその将来には非常に期待できるが、40歳、50歳になってもろくな仕事をしていないならば、その人の人生は所詮そんなもので、それ以上期待できないということです。

 

この付け足しの言葉は、蛇足だったのではないでしょうか。

 

孔子自身は70歳以上の生を全うした当時としては長寿の人でありましたが、当時の平均寿命は今より短かったと思うので、確かに、この人生では芽は出ないかも知れません。でも、来世、そのまた来世があると考えればそのような、もう努力するのはおやめなさいというような言葉は出てこないと思うのです。

 

孔子は「今汝は画(限)れり」と、物事が成功しないのは、今あなたが諦めたからでしょ、諦めずに続ければきっと成就するよ、という意味の言葉も残しており、私はこの言葉は大好きですが、上の言葉とはやや矛盾します。

 

「四十五十にして聞こゆるなくんば、これまた畏るるに足らざるのみ」という言葉を発するということは、やっぱり孔子は来世の存在を信じていなかったのだと思います。

「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」と言った人でもありますからね。

 

石田三成は斬首にされる間際に、喉が渇いたので白湯がほしいと敵将に言ったところ、柿でも食っていろとじゃけんに扱われたのですが、三成が柿は体に障るという理由で断ると、その敵将は、お前は今まさに死のうとしているのに何をのんきなことを言っているのかと笑われたのですが、「武士は死の間際になっても一片の期待を捨てずに精進するものである」という意味の言葉を返して敵将を黙らせたという逸話が残っています。

 

 

まして来世があると信じるならば、いくつになっても物事を始めるのに遅いということはありません。自分の才能に限りをつけず、少しずつでも前へ進みたいですね。