2006年1月の日誌(備忘録):

YAHOO!ジオシティーズより、転記。
2019年にYAHOO!ジオシティーズが終了するとのことで、このブログに転載して記事を保存します。

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2006年1月に書かれた記事:


1990年代のバブル時代の最中、東京都内の高田馬場、早稲田通りにある早稲田予備校13時ホール最上階の大ホールで、毎年恒例の夏期講習が行われていた。ある8月のこと、当地名物の13時ホールから国鉄JR高田馬場駅にむかって長蛇の列ができていた。 『井川治久のマル秘英語らくらく突破ゼミ』の受講生たちだった。早稲田通りから13時ホールのエントランスそして階段を経由して最上階の大教室まで、まさに大蛇のように大学受験生が行列を成していたのである。 (予備校の校舎の前に生徒が並ぶ光景は、かつては日常的なことだった。昨今では塾の教室が増え、あり得ない。)


★記録的な締め切り講座が出た。末広がりの八の字にちなんで作られた★888人収容の最上階大ホールに 満席の受講生が集まり、その後ろでは、封切り映画のごとく★立ち見が出た。興奮のあまり、 守谷務理事長が、授業のチャイムが鳴ると演壇に上がりマイクを握って、井川治久という当校名物先生の説明を始めた。想定外のコンサート状態で、
冷房が故障した。井川講師は汗まみれになり、Yシャツから肌が透けていた。

小さな黒板の字など、見えるはずもない。記念受講か?、、、いや、当時の私たち受験生は、★必死で、真面目だった。

★耳で聴き、懸命にノートに★書きなぐった。井川治久講師は、業界一の早口だった。100分講義における ★内容の緻密さと大量の情報と迫力で、私たちは、熱中できた。


その講義録は、井川ゼミ卒業2期生の阿部由晴くん(明治大学OB)が索引を作成し、学研から出版されている。
2006年1月1日。
井川治久講師ゼミ・1987年からの卒業生・同窓会。

井川治久(いかわ はるひさ)先生は、1987年1月4日に、当時では、業界初の大手予備校の最年少講師として、24歳で早稲田予備校の高田馬場本校の教壇にデビュー。