そろそろ椿から紫陽花が一時の華やかさを極める季節になってきましたね。どちらも「短命」、「非情」という不吉な言葉が冠されていますが、個人的にはとても素敵な品種だと思います。確かに椿はその盛りを終える時、ポトリとその花を地に着ける姿がまるで首を落とす様を連想させ、「落椿」として忌まわしき扱いを受けています。しかし、徐々に花びらを散らせ、死に刻々と近付いていく他の痛々しい花とは異なり、自らの時間を謳歌したと同時に華麗な姿のままで別れを告げるその様は「潔さ」すら連想させます。デュマ・フィスによる『椿姫』のヒロインであるマルグリット・ゴーティエに我々が感動できるのも、短命ながらも潔く、物質的ではなく精神的な「高貴さ」といった知性が彼女に垣間見えるからこそ、なのではないでしょうか。



一方で紫陽花はその風流な姿とは裏腹に、その葉には毒を含有しています。それは、人を死に至らしめかねないほどの猛毒で、正に「綺麗な花には棘がある」の典型例です。その容赦無き様が非情と称される所以なのかもしれません。そんな危険なかほりが仄かに漂う紫陽花ですが、土壌の酸性度によって万華鏡のように花の色を変えるその様からは「七変化」とも称されます。千変万化に姿が移ろう様相は非常に魅力的で、幽玄が醸し出ています。加えて、しとしとと雨が降る時季に栄華を誇る紫陽花は、その滲み出る優雅さにアンニュイな風情を添え、より一層趣があり、気品に溢れています。



椿と紫陽花、どちらの花もどこまでも美しく、迸らんばかりの魅力が多くの人を惹きつけて止みません。今回はそんな花のように素敵な人達について語りましょう。



みなさん、新年度いかがお過ごしでしょうか。どうも。英語英文学科3年の守屋です。小生もとうとう大学生活が折り返し地点を過ぎてしまいました。まだまだ走り続けたいものなのですが、時の流れというものは時に冷酷です。しかし、川の流れに二度と同じ流れが存在しないように、常に新しい時の流れが眼前には拡がっています。それは未知の水域に我々を導いてくれるかもしれませんし、ひょっとしたら大海へと繋がっているかもしれません。何れにせよ、新しい光景を楽しみに、思い思いに漂ってみようかと考えています。



T-teamでも初々しい新入生が毎回活動に来てくださり、心が洗われるというか、このサークルに足を運んでくださったことに非常に嬉しく思っております。と同時に、我々の代が既に運営代となって半年が経過したのだということに驚きを禁じ得ません。況してや、小生なぞ会計というとても手を抜く訳にはいかない重要な役職です。半年経った現在でも、小生如きが会計で良いのだろうか、今までの先輩と比べて、こんなハチャメチャな野郎が先輩で後輩に申し訳が立たないのではないかとふと思ってしまいます。



と言うのも、T-teamには実に素晴らしい、魅力的な諸先輩方が数多いらっしゃいます。4月が訪れ、先輩方の中にも環境の変化があった方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。大学院に行かれたり、教員として教鞭を振るったり、就職して日々の業務をこなしたり、といった具合に。加えて、どの先輩方も魅力に溢れており、とても教育に熱心だったり、頭がキッレキレだったり、何事にも真摯でその根底には優しさが秘めてあったりと、いつまでもその言葉が尽きることはありません。T-teamというサークルを通して、このような先輩方と少なからず関われたことは小生にとって誇りでしかありません。小生如きが恐縮ですが、どこまでも先輩方のより一層のご活躍を早稲田の地から心より願っております。しかし、小生には先輩方のような「先輩」足るに値するのでしょうか。



そうです。今回のタイトルは、些細ながらも先輩方への餞の言葉であると同時に、自分自身に対してのテーゼでもあるのです。




ここから先に関しては…また次回ということで。流石に1つの記事が5000字を優に超えるのはちょっち疲れちゃいますよね。なので、少し文章のリズムが崩れてしまうのが忍びないのですが、全体を5パートくらいに分割・加筆して、連載形式にしようかなと思います。次回からは毎週日曜を目安に続きを書けたらいいですねぇ。まだまだ「高貴」に関しても『かぐや姫の物語』なんかを引き合いに、色々と議論を深めていきたいものなのですが、思考と表現のスピードが噛み合わず、やや時間を喰ってしまいます。



ちなみに、ここから先は全くの余談ですが、ジブリの『かぐや姫の物語』、既に上映は終了していると思われますが、この作品をご覧になられた方はいらっしゃるのでしょうか。小生は映画を観ている間も、観終っても清々しい涙が流れてきてしまいました。非常に現代的ながらも、心にしっくりくるとでも言うのでしょうか。やはり、どんなに国際化が進み、大学なんかが9月入学等の制度を輸入してきても、満開の桜を見ると1年の始まりを予感してしまうように、どこまでも「一」に統べることなどできないのかもしれません。まぁこのようなノイズはいずれ時がシャットダウンしてしまうのかもしれませんが。しかし、そういう意味では『1984』に対するアンチテーゼにもなり得ますし、または『美と共同体と東大闘争』に於ける三島と東大全共闘との「日本人」や「国籍」についての議論をも想起させます。はたまた『薔薇の名前』で著名なウンベルト・エーコらの記号論の話へも持っていくことが可能です。それぞれ政治学的な文脈で読むも、言語学的な観点から切り込むのも一興です。これについて…って具合にまた逐一語ろうとするから毎回長くなってしまうんですね。とにかく、次回をお楽しみにっ!このブログを読んでいるみなさん、小生のブログは1回読んだだけでは終わらせませんよ~。