こんにちは。文化構想学部3年の草野です。
私としては珍しく連続更新中です。句読点が文頭にきてしまうのはブログの仕様なのでしょうか。気持ちが悪いですね。直す方法を模索しています。
では、今日も今日とてまとまりのないブログを書いていきます。


私は学部で西洋史などを勉強してきたのですが、今年から古代ローマを中心に勉強しています。
卒論で古代ローマの道徳や人々の意識について扱う予定があるからです。
古代ローマの人々の意識を学んでいく中で、自分自身の内面や「自己」というものについても考えることが多くなり、最近はそういう関係の本を読んでいます。

私たちは大抵、昨日の私も一昨日の私も十年前の私も私だと思っています。私がいくら中高生のときの自分を切り離そうとしても私は切り離せないわけです。
切り離せないばかりか時間が経つと、過去の自分に意味付けをしようとしたり解釈めいたことをしようとします。私が中高生のときにあんなことをしたり思ったりしたのはきっとこういう青年期の発達課題が関係して云々とですね。
あたかも自分のことが分かったような口ぶりで解釈するわけです。

私は小学生のとき、どうしても学校に行きたくない時期がありました。
小学生のときの学校に行きたくなかった自分の気持ちを今の私が解釈することもできるのですが、一体その解釈が合っているかどうかなんて全く分からないわけです。
当時の気持ちと今を比べて「そんな悩みは大したものじゃない」とか「ちっぽけな悩みだね」なんて、今の私の自分の尺度で過去の私をはかることができるのでしょうか。
私は連続しているように見えて連続していないのではないか(´・ω・`)そんなことを思います。

連続しているように見えた自分ですらこんな調子で、他人の気持ちを理解するなんて無謀に感じられます。
自分の経験やたくさんの人をくくった枠組みに相手を押し込めて理解したような気持ちになるのはよくあることで、自分を振り返ってみるこの頃です。


成長しませんね…今日もまとまらない。