村上春樹の短編について。
仕事をやめ、七年ぶりに東京から帰郷したぼく。二十五歳。
ぼくには十四歳で難聴のいとこがいる。
叔母に頼まれて、彼をバスで病院に連れて行く。
その際に友人と、友人の彼女と過ごした高校二年生の夏を思い出す。
胸の手術で入院していた彼女は、ぼくと友だちに絵を書いて彼女のつくっている詩について語る。
それが「めくらやなぎと、眠る女」。
めくらやなぎはつよい花粉をもち、それをつけた小さな蠅が耳から潜り込んで女を眠らせるのだという。
その少しあと、友人は死んでしまう。彼女のその後のことはうまく思い出すことができない。
ぼくがそうして過去の世界に囚われているところを、いとこが現実に引き戻し、再び二人でバスに乗って帰っていく。
のちに大ヒット作『ノルウェイの森』(1987)へとまとまっていくこの作品は、
もともと1983年に「文學界」に掲載されたもの。
それが1995年11月に『めくらやなぎと、眠る女』として大幅に書き換えられた。
改訂のきっかけは1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災だった。
このふたつのめくらやなぎは、震災を挟んでまったく異なる作品へと生まれ変わった。
○喪失の痛み、痛みの喪失
改稿版では大幅に削られているが、オリジナルでは、友人(キズキ)と友人の彼女(ナオコ)の死に対する痛みと、その痛みの記憶すらも時とともに薄れてしまうことへの悲しみに焦点が当てられている。
彼女はめくらやなぎの物語によって、「心の闇・病み」を訴えていた。
めくらやなぎの根は深く、暗闇を養分として下へ下へと伸びていく。
その花粉は周囲のものにも悪影響を及ぼす。
一見明るく振舞っている彼女も、こんなめちゃくちゃな物語をつくるくらいだからめくらやなぎのように下を向く悲観的性格をもっていたのだろう。
夢に出てきた、眠る女を救いに来る若者がキズキではなかったということが、キズキに対する罪悪感として彼女を襲っていたのかもしれない。私は彼を愛しているはずなのに。彼も私を愛してくれているのに。
そんな苦しみのSOSに僕(ワタナベ)もキズキも気付くことが出来なかった。
だからたぶんチョコレートはもうどろどろに溶けてしまっていたんじゃないかと僕は思う。でもその時はチョコレートのことなんて考えもしなかった。
同短編集に収録され、同じく『ノルウェイの森』へと発展していく作品『螢』の一節が、この三人の物語を的確に表現している。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
ぼくは親友の死をきっかけに、死をより身近なものとして捉えるようになる。
しかしそれから8年がたつと、僕はそのもっとも痛切な記憶さえうまく思い出せなくなってしまう。
『ノルウェイの森』で描かれるように、友だち(キズキ)だけでなく彼女(ナオコ)も、死んでしまうのだ。
僕にとってあまりに重い彼らの死は、僕の記憶にふたをする。
大切な人たちの死に対する痛みさえうまく思い出せなくなってしまうという空虚な悲しみが、
五月の風とともに僕を鈍く揺さぶる。
○世界とのコミュニケーションの断絶と復活
大切な人たちをなくした僕は徐々に世界から距離をおき、人とかかわれなくなっていく。
印象的なのが、バスのシーン。
ぼくといとこ以外の乗客は全員老人で、誰一人ぼくの存在に注意を払うものはいない。
つまり、僕は外の世界とコミュニケーションをとることが出来なくなり、誰かから求められることもなくなってしまったのだ。
そんな僕を救う唯一の希望が、いとこだ。いとこもまた原因不明の難聴という一種の「コミュニケーション障害」を抱えている。そんな二人だからか、どこか通じ合うところがあり、いとこは僕に信頼を寄せる。僕は人に頼られることに慣れない戸惑いを覚えつつも、やさしいまなざしを向けているように思える。
二人肩を並べて28番のバスに乗り込んでいく情景には、微かな光を感じる。
もし間違ったバスに乗ったのだとしても、バスは循環路線なのだから、ぐるりと一周してもとの場所に戻ってくるだけの話だ。
「28」という数字は、時の循環を示している。月日と曜日の関係は、28年で一巡する。
(2011年7月4日は月曜日、2039年7月4日も月曜日)
このバスは、一度道を間違ってしまっても大丈夫だ、またもとのルートに戻れるんだ、という希望を表しているんだと思いたい。
震災を受けてこの作品がどう変化したのか、個人的感想などその他もろもろはまた次回。
仕事をやめ、七年ぶりに東京から帰郷したぼく。二十五歳。
ぼくには十四歳で難聴のいとこがいる。
叔母に頼まれて、彼をバスで病院に連れて行く。
その際に友人と、友人の彼女と過ごした高校二年生の夏を思い出す。
胸の手術で入院していた彼女は、ぼくと友だちに絵を書いて彼女のつくっている詩について語る。
それが「めくらやなぎと、眠る女」。
めくらやなぎはつよい花粉をもち、それをつけた小さな蠅が耳から潜り込んで女を眠らせるのだという。
その少しあと、友人は死んでしまう。彼女のその後のことはうまく思い出すことができない。
ぼくがそうして過去の世界に囚われているところを、いとこが現実に引き戻し、再び二人でバスに乗って帰っていく。
のちに大ヒット作『ノルウェイの森』(1987)へとまとまっていくこの作品は、
もともと1983年に「文學界」に掲載されたもの。
それが1995年11月に『めくらやなぎと、眠る女』として大幅に書き換えられた。
改訂のきっかけは1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災だった。
このふたつのめくらやなぎは、震災を挟んでまったく異なる作品へと生まれ変わった。
○喪失の痛み、痛みの喪失
改稿版では大幅に削られているが、オリジナルでは、友人(キズキ)と友人の彼女(ナオコ)の死に対する痛みと、その痛みの記憶すらも時とともに薄れてしまうことへの悲しみに焦点が当てられている。
彼女はめくらやなぎの物語によって、「心の闇・病み」を訴えていた。
めくらやなぎの根は深く、暗闇を養分として下へ下へと伸びていく。
その花粉は周囲のものにも悪影響を及ぼす。
一見明るく振舞っている彼女も、こんなめちゃくちゃな物語をつくるくらいだからめくらやなぎのように下を向く悲観的性格をもっていたのだろう。
夢に出てきた、眠る女を救いに来る若者がキズキではなかったということが、キズキに対する罪悪感として彼女を襲っていたのかもしれない。私は彼を愛しているはずなのに。彼も私を愛してくれているのに。
そんな苦しみのSOSに僕(ワタナベ)もキズキも気付くことが出来なかった。
だからたぶんチョコレートはもうどろどろに溶けてしまっていたんじゃないかと僕は思う。でもその時はチョコレートのことなんて考えもしなかった。
同短編集に収録され、同じく『ノルウェイの森』へと発展していく作品『螢』の一節が、この三人の物語を的確に表現している。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
ぼくは親友の死をきっかけに、死をより身近なものとして捉えるようになる。
しかしそれから8年がたつと、僕はそのもっとも痛切な記憶さえうまく思い出せなくなってしまう。
『ノルウェイの森』で描かれるように、友だち(キズキ)だけでなく彼女(ナオコ)も、死んでしまうのだ。
僕にとってあまりに重い彼らの死は、僕の記憶にふたをする。
大切な人たちの死に対する痛みさえうまく思い出せなくなってしまうという空虚な悲しみが、
五月の風とともに僕を鈍く揺さぶる。
○世界とのコミュニケーションの断絶と復活
大切な人たちをなくした僕は徐々に世界から距離をおき、人とかかわれなくなっていく。
印象的なのが、バスのシーン。
ぼくといとこ以外の乗客は全員老人で、誰一人ぼくの存在に注意を払うものはいない。
つまり、僕は外の世界とコミュニケーションをとることが出来なくなり、誰かから求められることもなくなってしまったのだ。
そんな僕を救う唯一の希望が、いとこだ。いとこもまた原因不明の難聴という一種の「コミュニケーション障害」を抱えている。そんな二人だからか、どこか通じ合うところがあり、いとこは僕に信頼を寄せる。僕は人に頼られることに慣れない戸惑いを覚えつつも、やさしいまなざしを向けているように思える。
二人肩を並べて28番のバスに乗り込んでいく情景には、微かな光を感じる。
もし間違ったバスに乗ったのだとしても、バスは循環路線なのだから、ぐるりと一周してもとの場所に戻ってくるだけの話だ。
「28」という数字は、時の循環を示している。月日と曜日の関係は、28年で一巡する。
(2011年7月4日は月曜日、2039年7月4日も月曜日)
このバスは、一度道を間違ってしまっても大丈夫だ、またもとのルートに戻れるんだ、という希望を表しているんだと思いたい。
震災を受けてこの作品がどう変化したのか、個人的感想などその他もろもろはまた次回。
いま、まさにいま。
猛烈な「英語熱」に襲われている。
今朝。「あさイチ」でハリウッドで活躍する浅野忠信を見る。
グッチさんがSupremesやらMarvelattesやらを紹介してた。
たまにスベリ具合が半端ないグッチさん。見てるこっちがヒヤヒヤする。
昼。Contemporary Japanese Literatureの授業。よしもとばななの"Asleep"と村上春樹の"Sleep"を扱う。
夕方。同じく村上春樹の"Blind Willow, Sleeping Woman"を読む。
夜。色彩心理学に関するプレゼンの資料を探す。
それから英語でしゃべらナイトとニュースで英会話を見る。
HPのナレーションを何回も再生してひたすらシャドウイング。
Youtubeで友達にすすめられたBeady Eyeを聴いてみる。
いまに至る。
↑の活動は全部英語関連。
留学以後の英語力低下に懸念を感じつつ、なにもしてこなかった。
けど最近ようやく英語に触れる時間が増えてきた、かな。イイネ!
International Role of Japanese Businessって授業で、いろんなグローバル企業のお偉いさんたちが来て、今後の海外展開について語ってくれる。
メリルリンチ、トヨタ、パナソニックなどなど。
でも、そのお偉いさんたち。正直、英語はそんなにうまくない。
思いっきりジャパニーズイングリッシュの人もいた。
あー発音悪くても海外相手に働いて、しかもこういうポストにもつけるんだ!
ってのが、純ジャパ(*純粋なジャパニーズ)としての安堵に満ちた率直な感想。
大事なのは発音よりも、自分の意志を自分のことばで伝えられるかどうか。
いまやネイティブよりもグロービッシュ話者の方が断然多いんだしね。
そして「中身」が伴ってるかどうか。
そのお偉いさんたちも、偉くなるだけの能力、人間性をきっと持ってるんだろう。
うちの学部の先生でもある脳科学者、茂木健一郎さんのツイッターでのつぶやき(2011/6/13)。
英語を使えることと、中身の鍛錬は別である。学部生だった頃、英語はペラペラだが中身のない人を「air head」と言ってバカにしていた。中身も稠密に詰まっていて、英語を駆使できないと、人類文明の先端にいられない。繰り返すが、ネイティブが偉いわけではない。
これは、背中を押される。純ジャパのみんな、頑張ろう。
でもやっぱりおれは、流暢な発音でペラペラしゃべりたい。同じく純ジャパの小林克也さんみたいに。
なんでか。だって、かっこいいから。
あらゆるモチベーションは、格好良さの追求によって与えられる。
浅野忠信は、英和辞典から英英辞典に切り替えて猛勉強したらしい。
小林さんは、ラジオや音楽を聴きまくってフレーズごと体で覚えてたらしい。
今日から英英辞典を積極的に使用し、Beady Eyeを唄いまくることとしよう。
ブログは思いっきし日本語で書いちゃったけどね。
ニホンゴの自由度の高さ、表現の幅広さがたまらなく好きです。
猛烈な「英語熱」に襲われている。
今朝。「あさイチ」でハリウッドで活躍する浅野忠信を見る。
グッチさんがSupremesやらMarvelattesやらを紹介してた。
たまにスベリ具合が半端ないグッチさん。見てるこっちがヒヤヒヤする。
昼。Contemporary Japanese Literatureの授業。よしもとばななの"Asleep"と村上春樹の"Sleep"を扱う。
夕方。同じく村上春樹の"Blind Willow, Sleeping Woman"を読む。
夜。色彩心理学に関するプレゼンの資料を探す。
それから英語でしゃべらナイトとニュースで英会話を見る。
HPのナレーションを何回も再生してひたすらシャドウイング。
Youtubeで友達にすすめられたBeady Eyeを聴いてみる。
いまに至る。
↑の活動は全部英語関連。
留学以後の英語力低下に懸念を感じつつ、なにもしてこなかった。
けど最近ようやく英語に触れる時間が増えてきた、かな。イイネ!
International Role of Japanese Businessって授業で、いろんなグローバル企業のお偉いさんたちが来て、今後の海外展開について語ってくれる。
メリルリンチ、トヨタ、パナソニックなどなど。
でも、そのお偉いさんたち。正直、英語はそんなにうまくない。
思いっきりジャパニーズイングリッシュの人もいた。
あー発音悪くても海外相手に働いて、しかもこういうポストにもつけるんだ!
ってのが、純ジャパ(*純粋なジャパニーズ)としての安堵に満ちた率直な感想。
大事なのは発音よりも、自分の意志を自分のことばで伝えられるかどうか。
いまやネイティブよりもグロービッシュ話者の方が断然多いんだしね。
そして「中身」が伴ってるかどうか。
そのお偉いさんたちも、偉くなるだけの能力、人間性をきっと持ってるんだろう。
うちの学部の先生でもある脳科学者、茂木健一郎さんのツイッターでのつぶやき(2011/6/13)。
英語を使えることと、中身の鍛錬は別である。学部生だった頃、英語はペラペラだが中身のない人を「air head」と言ってバカにしていた。中身も稠密に詰まっていて、英語を駆使できないと、人類文明の先端にいられない。繰り返すが、ネイティブが偉いわけではない。
これは、背中を押される。純ジャパのみんな、頑張ろう。
でもやっぱりおれは、流暢な発音でペラペラしゃべりたい。同じく純ジャパの小林克也さんみたいに。
なんでか。だって、かっこいいから。
あらゆるモチベーションは、格好良さの追求によって与えられる。
浅野忠信は、英和辞典から英英辞典に切り替えて猛勉強したらしい。
小林さんは、ラジオや音楽を聴きまくってフレーズごと体で覚えてたらしい。
今日から英英辞典を積極的に使用し、Beady Eyeを唄いまくることとしよう。
ブログは思いっきし日本語で書いちゃったけどね。
ニホンゴの自由度の高さ、表現の幅広さがたまらなく好きです。