もう 確実に後が無いとなると

 

人生に於いて、もうこれ以上 どうあがいても 絶対に助からないと理解したとき、それこそ何もかもが、もう どうでも良くなってしまう。

 

モラルもマナーも道徳心も

 

小中高校時代には、けっこう『道徳の時間』だとか、或いは『倫理社会』だとか、いわゆる“道徳心”を中心とした授業の時間が特に好きだったのだが、それに反して大概、それらの授業は『自習扱い』になって、先公がクラスにやって来ず、殆ど毎回自習時間になってしまい、当時はとても残念でしかたがなかったが、今思えばおそらく、そういった“道徳心の授業”は、先公が生徒達へ教える自信が無かったから、あえてシカトし続けて授業をせずに“放ったらかし”にしていたのだと つくづくそう思わずにはいられない。

 

死を覚悟すると、もはやそんなことなどドーデモいいw

 

まだマナーだけは、かろうじて踏み留まって捨てずにいるものの、モラルだの道徳心だの、今までの人生に於いて、自分の中で結構大切にしてきたテーマなんて、それこそもう“一切 知ったこっちゃない”という心境までに悟りを開く。

 

『タガが外れる』という状況

 

つまり ようするに、満々と大量の水を湛えた『大型ダム』の巨大な壁が、水圧に耐えきれずに一気に“決壊”するのと同じように、今までの人生で耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで持ち堪えてきた自分の中の、そういった『常識的判断』が大きな音を立てて崩れ去り、ダムの外壁ごと、全てが『水泡に帰す』結果となってしまうのと全く同じ現象に至ってしまうものである。

 

残り僅かな人生

 

もはやモラルだの道徳心だの、全てかなぐり捨てて、ホンの僅かの残された『晩年』を、何も堪えず何にも縛られず、何の恥や外聞にも囚われずに生きることしか、他に残された道はない。