バレンシアといえばオレンジ🍊

 

はい、オレンジ畑たくさんあります。私の夫の実家もオレンジ農家です

 

でも、実は、今のオレンジ畑は20世紀初めまでは、桑畑でした。つまり、お蚕さんが食べる桑の畑が広がり、絹産業がバレンシアの基幹産業でした。

 

それでは、なぜ、桑畑がオレンジ畑に???

 

 

 

それは、実は日本のせいキョロキョロ明治以降の殖産興業政策の下、急成長した安くて品質の良い日本の生糸に世界市場での地位を奪われたんです。ただ、その前に欧州で蚕の疫病が大流行し、バレンシアのお蚕さんも全滅した際、日本が気前よくお蚕さんを分けてくれて、バレンシアの紡績業を救っていたということもあって、誰も日本のことを恨んでいないようです。こういうことから、親日家が多かったのでしょうか?(バレンシア大学の歴史の先生に伺いました)

 

100年くらい前のバレンシアの人たちの親日ぶりは、築約100年のバレンシア北駅の入り口の柱に、タイル(タイルや陶器も絹に並ぶバレンシアの基幹産業でした)で「ご機嫌好う(ごきげんよう)」と表示されたり、その片鱗をうかがい知ることができます。

 

バレンシア北駅の入り口の柱にあるタイルの表示

 

また、バレンシアを代表する作家ブラスコ・イバニェス(Blasco Ibañez)も関東大震災の数か月後に日本を訪れ、著書の「Japón(日本)」で「横浜は悲しい雰囲気を残しつつも、公共サービスは通常に戻り、人々は滑稽に思われるほど働きまわっている。特に、市電がわずか数日で復旧したのは驚きだ」と日本人の勤勉さを讃えています。

 

話を戻しますと、このバレンシアでの養蚕業と紡績業の歴史は古く、特に、15世紀は「バレンシアの黄金時代」と呼ばれこの地域に巨万の富をもたらしました。

 

その逸話としては、あのフリストファー・コロンブスがアメリカ大陸発見のための航海に出た際、スポンサーとなったカスティリャ王国のイサベル女王に融資したのは、バレンシアの銀行家だったそうです。

 

また、日本の歴史好きの間で人気のある中世ヨーロッパの人物、チェーザレ・ボルジアもバレンシアと縁が深い人物なんです!!!そもそも、彼の最初の役職はバレンシア大司教。彼の父親のローマ教皇アレクサンデル6世が、バレンシアの郊外のシャティバという所の出身だったのです。

 

バレンシア郊外のガンディアのボルジア(スペイン語でボルハ)家の宮殿

 

このチェーザレ君は、イケメンだったことで有名だったせいか、塩野七生先生の「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」をはじめとした書籍や色んなマンガ(だいたい少女漫画)に登場します。特に、惣領冬実先生の「チェーザレ 破壊の創造者」がモーニングに掲載され有名です。

チェーザレ・ボルジアが描かれた漫画

 

ただ、このチェーザレ君はローマ生まれのローマ育ちで(安倍元総理の選挙区は山口ですが出身は東京と同じような感じでしょうか?)、恐らく、生涯のうちバレンシアに来たことはあるかないか、繋がりは薄いようですが、彼や彼の父親の法皇アレクサンデル6世の政治力、軍事力を支えたのは、バレンシアが産み出す経済力だったのではないかと思われます。

 

その黄金時代に建てられたのが、UNESCO世界遺産に指定された絹取引所のラ・ロンハ、そして、今回のイベントの会場である絹織物業組合(ギルド)の本部であった現在のシルク博物館です。

 

UNESCO世界遺産 絹取引所 ラ・ロンハ

 

ということで、15世紀に黄金時代を迎えたバレンシアですが、今は…

 

それは、話が長くなるので、また違う時に…