3日目の夜の 薪の行道が寝殿母屋で行われいます。六位蔵人(天皇の秘書役)と殿上人が薪と水を持ち 普賢菩薩像の周りをまわっているのが見えます。
明け方に 蘭陵王が始まったそうです。↓
塗籠の前の南庇に座る光る君(白い直衣)その後ろ 黒い束帯を着ている夕霧(簾奥)
母屋の東 東庇の間 行道の七僧 、手前の簀子縁に並んで座るのが親王方
紫の上は 母屋の西の塗籠に座をしつらえ 母屋に向かって妻戸をあけ放ち 簾と几帳を置いて見ています。
なるほど これなら 母屋の様子と 前庭で行われていることが見える。
西庇からみたところ
紫の上は葡萄染の小袿をきています。
背後に御帳台があります。
帳台は権威の象徴で その前の 置き畳の上に 裳と唐衣をつけず 小袿姿で座る 正妻格としての紫の上。
光る君の正妻は 葵の上と女三宮だけで 紫の上は 正式な結婚をしておらず 光る君が正妻をもたなかった期間 正妻格として世に認知されていた とあれこれで 読みました。この時は女三宮は出家していたので 紫の上が正妻格の時期です。
ちなみに 紫の上がなくなったあとは 花散里の御方が 正妻格。光る君の衣装を作って届けていることが 幻の巻に書かれています。衣装を仕立てるのは 正妻の務めです。
北庇二の間に座す 左花散る里の御方と 明石の御方
最近は 光る君へもそうだけど 平安時代は一夫一妻多妾制 といわれています。最初に正式に結婚した人が正妻で (もっと高い身分の女性と結婚したらその立場を下りる)あとは妾という立場という考え方です。
蜻蛉日記を読んだら 同じ階級の時姫の後に結婚した作者は 兼家との同居に望みをつないでいたので 私は 妾ではなく 正妻になりうる妻という立場だったんじゃないかなと思うので 一夫一正妻多妻多妾(妾は召人) と思います。
妻の下に召人という立場があって 仕える立場にある人と関係をもつ女性で 光る君にも 道長にもいました。
最近では 紫式部を道長の召人 という考え方をすることが多いそうです。
明石の御方は しっかり裳をつけています。
この博物館のすごいなと思う一つです。
明石の御方のもとに 紫の上からの文が 匂宮を使者として 届けられています。
女房が取次ぎをしています。
捧物がたくさん用意されています。
源氏物語 若菜上 東宮妃 明石女御の出産
御帳台の前に座り 皇子を抱く光る君
御帳台右の白い帳台に横になる明石女御
姫君は11歳で入内 13歳で 東宮の一宮を出産
冬の御殿には寝殿はなく 対屋が東西にあり 北に明石の御方の財力を示す 御蔵町がありました。
「源氏物語 六條院の生活」編集 風俗博物館 に記載の六條院見取り図。
姫君の里邸は春の御殿ですが 陰陽師にの占いで 実母明石の御方の冬の御殿に移って行われました。後見である明石御方はつきっきりでした。紫の上が白装束に身を包み 明石女御をお見舞いにきてます。
出産してから1日おきに儀式があり お湯殿の儀では ふつうは母方の女房が行う御迎湯の役を 皇子の外祖母にあたる明石の御方がつとめられました。
6日目に春の御殿に移動し 7日目の産養いの儀式は春の御殿で盛大に行われました。
将来の後ろ盾を示す 冷泉帝が主催し 秋好中宮 東宮の父朱雀院から贅美をつくした品々が届けられ 若宮の輝かしい未来が予見されます。
明石でこれをきいた明石入道は 宿願が果たされたと山奥に入り消息を絶ちます。
姫君の枕元で裳と唐衣のつけてないのが紫の上
若菖蒲かさね 白撫子かさね 女郎花かさね
紅葉かさね 雪の下かさね 松かさね
かぐや姫の昇天の場面
偏つぎ
光る君へにも登場している 遊び。
打出
女房がいるように見えますが 衣装を几帳に抱き込んで結んでいます。
素敵な展示の数々で とても楽しい時間でした。
帰りに八条口のミスタードーナツでお昼。福袋のドーナツ引換券の引き換え期間すぎそうだったので。
家人のビールを買おうと ロピアに寄ると 肉の日で お肉激安。重いけれど買って帰りました。
国産鶏モモ 三元豚こまぎれ 100g 69円
一番近所にできてほしいスーパーはロピア。滋賀にないけれど。
読んでくださりありがとうございました。