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ピッティ宮殿はアルノ川そばオルトラルノ地区に位置します。1458年フィレンツェの総督的な立場の正義の旗手に3期選出された老コジモ・デ・メディチのライバル銀行家ルカ・ピッティがフィリッポ・ブルネレッスキに設計を依頼したのにはじまり、ルネットのフレスコ画によると3階建て中央の窓7つ分の中央部分だけでルカ・ピッティが老コジモとの競争の中で多額の借金を負ったため完成しませんでしたがその家族はここに住んでいました。

1549年初代トスカーナ大公コジモ1世妃エレオノーラ・ディ・トレド(資料によりコジモ1世)がピッティ家から購入しバルトロメオ・アンマナーティとに増築を依頼、1558年から70年メイン部分の厚みを2倍にし、迎賓用の中庭を構成する2つの翼と上部の回廊を増設し、ニコロ・トリボロによりボーボリ庭園が整備され追加されました。現在のウフィッツィ美術館、ヴェッキオ宮殿とヴァザーリの回廊で繋げられました。

 

コジモ1世からフランチェスコ1世の時代は工事は終わらず迎賓や祝祭、外交において使用されただけでした。コジモ1世はメディチ・リッカルディ宮からヴァザーリの手で改装されたヴェッキオ宮を住居にしていました。枢機卿の地位を放棄して大公位を継いだフェルディナンド1世の代にやっと王宮として機能するようになります。大公の公邸となると公的な部分と増えていく家族やスタッフのための住居が必要になりさらに増築されていきました。

 

1580年からはコジモ2世がアンマナーティの孫ジュリオ・バリージに依頼してファサードを横に拡張する工事が行われ、19世紀初めに現在の長さ200mになりました。

 

ファサード裏側、左翼、右翼をつなぐキッチンの回廊、台所の橋とも呼ばれました。

1859年からトスカーナ大公国がイタリアに併合されるまでの3世紀の間、宮廷として歴史の舞台となり、メディチ家、1736年メディチ家が途絶えたのちはロレーヌ公領と引き換えにマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン(トスカーナ大公としてはフランチェスコ2世)が引き継ぎました。フランツは縁もゆかりもないフィレンツェを好まずここに住むことはありませんでした。

 

ナポレオンがイタリアに侵略すると滞在場所となりタリア統一後はサヴォイア家の王宮となりました。

 

1階にチケットオフィースがあります。ticket oneでオンライン予約していてもチケットに引き換える必要がありました。

タブレットのビデオガイドを借りることができますが、私は使い方がわかりませんでした。

 

大階段、パラティーナ美術館の入口手前に売店があります。

パラティーナ美術館

ピッティ宮殿にもともとあったメディチ家の美術品コレクションは最後の相続人アンナ・マリーア・ルイーザが遺言でフィレンツェから持ち出すことを禁じたためロレーヌと引き換えにフランツ・シュテファンが相続してもここに残りました。ナポレオンが侵略してウフィッツィ美術館の作品が持ち去られてもここのはそのまま残されました。

 

1828年ハプスブルグ・ロートリンゲン家のトスカーナ大公レオポルド2世が美術館として公開しました。パラティーナとは王宮という意味だそう。ファサード側の6つの広間とヴォルテラーノの翼棟ともよばれる北翼メディチ家の冬のアパートメントの一部の大公妃の居室としてしようされた部分にメディチ家の収集した美術品の一部500点を展示したのが始まりです。そこはピエトロ・ダ・コルトーナとチーロ・フェッリにより漆喰装飾とフレスコ画で装飾されていてアンナ・マリーア・ルイーザはここで亡くなりました。

 

彫刻のギャラリー

ローマのヴィラ・メディチから運ばれてきた彫刻が展示されています。

 

カスティニョーリの間

天上のフレスコ画を描いた画家の名がついています。貴石のはめこまれた19世紀のミューズのテーブルが置かれています。

 

アレゴリーの間

1650年ごろ大公妃ヴィットリア・デッラロベーレのためにヴォルッテラーノによって装飾された漆喰とフレスコ画の天井。

エミリオ・ゾッキ「子供のミケランジェロ」1861年

フィレンツェ派の画家「十字架の上で眠る幼子イエス」17世紀

バルダッサーレ・フランチェスキーニ「眠るアモーレ」

ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ「アレクサンドリアの聖カタリナ神秘の結婚」

ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ「新婚初夜」

チゴリ「マグダラのマリア」

ヤコポ・ダ・エンポリ「聖母の救援」

ジャコポ・リゴッツィ「聖フランチェスコへの聖母子出現」

 

芸術の間

天井のフレスコ画ドメニコ・ポデスタ「地上に芸術を生み出させるようヴィーナスに促すユピテル」1817年

ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ「クピドの髪をとかすヴィーナス」

クリストファーノ・アローリ「マギの礼拝」

チゴリ「聖ステファノの殉教」

1597年モンテドニ修道院の祭壇画として描かれ1928年ピッティ宮に置かれました。パウロは回心するまでキリスト教徒を迫害するパリサイ派でステファノを石打にする人たちがパウロの足元に長衣を脱いて置いたことが左側に描かれています。

イタリア、特にフィレンツェでマニエリスムが支配していた絵画界に対抗するべく手を尽くしたチゴリの努力の結晶といわれる作品。躍動感あふれ、不自然なねじれやプロポーションの不均衡は見られません。ルーベンス、コルトーナがこの作品を称賛したそうです。芸術は好きか嫌いかではなく正しいか正しくないかだと学びましたが、私はマニエリスムよりバロックが好きだなあと思いました。

 

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