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御花園から西六宮に通じる長康右門

後宮の后妃もここを通ったのかなあと思うと感慨深いです。
 
西に出るとドラマでよく見るながーい通路
西一長街
 
皇帝や身分の高い妃は輿に乗ってここを移動しました。
 
瓔珞 紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃」の瓔珞も
 
「宮廷の諍い女」甄嬛も
 
歩いていました。ドラマの撮影は横店ですが。

西六宮
後三殿の西に並ぶ6つの塀に囲まれた殿舎。
 
かっては西と東に6宮づつ対照的に並んでいました。
 
皇后、皇貴妃、貴妃(2人)、妃(4人)、嬪(6人)が東西十二宮の正殿に、
それより身分の低い貴人、常在、答応、官女子(定員なし)が後殿、偏殿に女官が住みました。
 
西より東の方が格が高く、中心線に近いほど格が高いので、
同治帝の生母でも貴妃だったので西六宮に住み西太后、咸豊帝皇后が東六宮に住み東太后と称されました。
 
西太后は東太后の亡き後(西太后が毒まんじゅうで殺したとされる)西六宮のうち中心線に近い二宮の塀を取り壊し一つの宮に改装しました。
 
「これにより東西対象が崩れ風水的に悪くなり清王朝が滅んだと言う人がいるが、明と同じ267年間なので改装しなくても王朝交代していたはず」と故宮博物院公式の本に書いてあります。
 
 
現在は西太后が使っていたままに保存されています。
 
東西十二宮は五間で皇后宮より格がずいぶん下がります。
 
雍正帝が南西の養心殿に寝殿を移して以降、皇后も後宮に住み養心殿の近く西六宮に住むこともありました。
 
儲秀宮
 
1665年建設された建物で1884年に西太后が改修した当時のまま保存されています。
 
西太后が一番長く住んだ宮。貴人時代は皇后の鐘粋宮の後殿に住んでいましたが、咸豊帝の子をみごもり昇格しここに移り住みました。
 
同治帝の皇后に譲り長春宮に移転しますが、皇后が70日後にここで死ぬと(殉死を強いて餓死させたと言われています)50歳の誕生日を機に大改装してここに戻りました。以降死ぬまでここに住みました。
 
その時すぐ南の翊坤宮との壁を取り除き間に体和殿を建て、儲秀宮、その後殿麗景軒、翊坤宮、体和殿をつなげて使用しました。
 
当時のまま保存されています。
 
そののち辛亥革命革命で廃位された溥儀の皇后婉容がここに住みました。
18歳で溥儀共々紫禁城を追われました。
 
その他ここに住んだのは、
乾隆帝皇后富察氏が皇后冊封前の2年間、その後乾隆帝皇貴妃高氏、
嘉慶帝皇后ヒタラ氏、同継皇后ニオフル氏
道光帝祥貴人、李応答、
咸豊帝英嬪、玻貴人。
 
東側
 
西の西太后の寝室を婉容が浴室に改装
真ん中が宝座 
 
婉容が宝座の裏を寝室に改装
 
儲秀宮見取り図
故宮博物院公式の本よりお借りしました
 
儲秀宮の後殿 麗景軒は修理中。

西太后が嬪時代に住んでいました。
1912年辛亥革命で廃位した溥儀が廃帝としてここに移り1924年に紫禁城を追放されるまで住みました。
 
溥儀好みの西洋式の内装で、西がダイニングルームで東がピアノのある居間だったようです。
 
儲秀宮の皇帝が後殿、皇后が正殿に住んでいたのですねえ。
 
溥儀が暮らしていたままに調度品が配置されていますが、2019年10月には閉鎖していました。
 
数時間以内(時間覚えていません)の退去を突然命じられたので調度品を持ち出すことも出来なかったのでしょうね。
 
映画ラストエンペラーではテニスを楽しんでいる時に告げたられています。
 
 
体和殿
元は翊坤宮の後殿。
 
西太后50歳の時、儲秀宮と翊坤宮の間の壁をとった場所に作られました。50歳の朝賀をここで受けました。
 
西太后が食事をする場所でした。食事は皇帝の食事を作る御膳房とは別に西膳房を設けて作らせました。
 
西太后が甥の光緒帝のお妃選びを行った場所です。
 
モダンなインテリアで他の宮よりぐっと明るいです。
 
天井は思いっきり西洋風ですが中国と西洋が美しく融合していると思います。中国でいうのも変ですがシノワズリ好きです。
 
西は休憩室
 
 
翊坤宮
 
 
「宮廷の諍い女」前半の親分“華妃“の住まい。
 
 
 康煕帝宜妃が47年間住み続け、
有名な雍正帝皇貴妃年氏(大将軍年羹堯の妹)が住んでいました。
雍正3年兄の失脚後監禁中に皇貴妃冊封されるも宮女を杖で叩き殺し嬪に降格してすぐ亡くなっています。
嘉慶帝安嬪も住まいました。
 
 
左手の軒に溥儀がここに婉容が遊ぶためのブランコを取り付けさせています。
 
永寿宮
皇帝の住まい養心殿に一番近いです。
 
同治帝の治世中頃から内乱、諸外国の侵攻が増して、皇室は秘密主義になりここの偏殿に財宝を集め清朝の崩壊を招くことになります。
西太后は垂簾政治を行っていた皇帝の執務室養心殿ではなくここで秘密裏に政治を行うようになりました。
 
「宮廷の諍い女」ではヒロインが熹妃ニオフル氏として返り咲いた後の住まい。
 
ここの主人としては、
順治帝は董鄂氏を寵愛して皇后ボルジギト氏を廃しました。静妃に格下げ後、ここに住みました。
 
順治帝、恪妃石氏、漢民族で最初の妃、普段は漢服で過ごすことを許され厚遇されて順治帝死後もここで過ごし(先帝の妃嬪は外六宮に移るしきたり)康煕六年ここで死去。
 
康煕帝良妃 低い出自から温厚な性格で寵愛を受け妃になりました。九王奪嫡で雍正帝と最後まで争った第八皇子胤穓の生母。
 
雍正帝 熹妃ニオフル氏が景仁宮に移る前に住みました。乾隆帝生母。長寿で西太后が憧れた皇太后。
 
嘉慶帝 如妃ニオフル氏 同帝最後の側室。
 
 
 
 
 
 
読んでくださりありがとうございましたニコニコ
皆様が楽しい週末をお過ごしになりますように願っていますドキドキドキドキドキドキ