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外朝の門にくらべるとぐっと小さいです。
3つの入り口は中央皇帝、左右皇族、廷臣用。
左右の壁沿いに並んでいる金色の防火用水瓶“缸”。青銅に金メッキ。
清朝ではここで皇帝が臣下の報告を聞く御門聴政が行われました。
乾清門から見た保和殿
交泰殿
80mx 140m。20の建物、古木、中国各地から集めた石で築山を形成し、四季を楽しめるようになっています。
南側が皇帝の執務室、北側が皇帝の寝室とありますが、中央が玉座で向かって右が寝室、左が執務室だったと個人的に思います。
雍正帝はこじんまりした養心殿に寝室を移しその南に質素な軍機処を設置し、それまでの内閣大堂から政治機構を移しました。
以降大臣の奏上を受けたり謁見したりとなりました。モンゴルなど外藩の王族を歓迎する宴も行われました。
交泰殿、坤寧宮とともに内廷三宮の一つ。乾は天の意味、坤は地の意味で真ん中の交泰殿で天と地が合体する意味がありました。
三殿を囲むように塀があり同じ一段の基台の上にあります。乾清宮でも九間で外朝三宮より格下になります。
内廷の宮殿には建物の名称の殿額がありますが、漢字と満州語で書かれています。
現在の内廷は順治帝時代に再建されたもので、叔父の摂政ドルゴンの意向により併記されており、格の高い左(南向きに座った皇帝から見てなので南から見ると右)に満州語があります。
中国宮廷ドラマでよく出てきます。ドラマや映画の撮影は紫禁城を等身大で復元した横店で行われています。
順治帝の宸筆「正大光明」
長子相続の習慣のない清では康煕帝の皇子達の熾烈な跡継ぎ争い九王奪嫡を経て皇位についた雍正帝が跡継ぎ争いを避けるため、この額の裏に次の皇帝の名を書き封をして収めました。この制度は「太子密献」と言います。
皇后が臣下から祝いを受ける場所でした。皇后の誕生日のは側室や皇族が並び宴が行われました。
ソウルの景福宮にも同じ名称の宮殿があり王妃の居殿でした。同じように陰陽の交わる場所とされています。
すごく豪華な天井。
豪華な格子天井「藻井」に太和殿と同じ軒轅球をくわえた龍、蟠龍戯龍。
「無為」の額は康煕帝宸筆
左右板屏風は乾隆帝宸筆
玉座の横に並んている黄色い箱は皇帝の玉璽が入った箱で25代続くようにとの願いをこめて25個あります。辛亥革命により10代で終わりました。
坤寧宮
雍正帝以前は皇后の居殿でした。皇帝の寝室が養心殿に移るとその近くの長春宮など後宮に移りました。
この辺は日本の内裏で天皇の起居の場が西の清涼殿に移ると皇后の居殿が藤壺や弘徽殿に移ったのに似ているなと思いました。
以降は西側の西閣で満州族の宗教的な儀式い、東暖閣が大婚(皇帝が結婚して皇后として迎える)を行った際三日間ここで夜を過ごし皇后は後宮に移りました。
ラストエンペラーでも溥儀がここで婉容と大婚の夜を過ごすシーンがありました。
故宮内廷は清時代に復元されているので最後の溥儀の大婚時の内装になっていると思います。
中国にもカン(漢字忘れました)というオンドルのような床暖房がありますが、全面ではなく寝台の床と普段座る床の下のみにあります。
すぐ北の坤寧門から出ると御花園です。
御花園
後宮から出られない皇后や側室はここが心の慰めになったようです。
また居ても不自然でない場所なので皇帝の気を引く場所として伝説やドラマに度々登場します。
興味がない家人に写真お任せにしたら御花園の写真が一枚しかありませんでした。
堆秀山
広すぎるので全部一度に見るのは不可能だと思います。
養性斎
皇帝の方が赴くほど尊敬していたのですね。ジョンストンは西洋のマナーや習慣も教えました。
溥儀、ジョンストン、弟の溥傑