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メンシコフ宮殿

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現在はエルミタージュの分館となっています。

 

学生見学無料、写真撮影も無料になっていました。

今回地球の歩き方(16`-17`)にある撮影料は無料になっているところがほとんどでした。

 

 

建造主アレクサンドル・ダニロヴィッチ・メンシコフ(1673-1729)

馬丁の子として生まれ、成人してモスクワでピロシキ売りをしていました。

 

摂政ゾフィー時代の不遇なピョートル大帝の親友に取り入り、

ピョートルの個人軍隊(軍隊ごっこに見せかけて精鋭部隊を訓練)に入り気に入られ、

 

クーデターで摂政ゾフィーを幽閉しピョートルが政権を持つと北方戦争で活躍し、やがてピョートルの片腕となります。

 

ピョートルが自身の愛人マルタ(元軍の洗濯係)を気に入ると差し出し、皇后のちに女帝に据えます。

 

相当額の横領を行いガラス製造を独占したりしたい放題し、

一度ピョートルが注意しましたが聞かず横領を続けたため怒り逮捕しようとしましたがエカテリーナが懇願し許しを得ました。

 

エカテリーナ1世(マルタ)

 取り合いするほど美人かな?滝汗

若い時は美人だったそうですがお酒を飲みすぎて太ったそうです

 

 

ピョートル亡き後クーデターを起こしかっての自分の愛人エカテリーナ1世を即位させ実権を握ります。

 

宰相、ロシア海軍と陸軍の最高司令官となり、

プリンス(神聖ローマ帝国の王子とロシア帝国の王子)と公爵の称号を得ます。

 

彼の本拠地オラニエンバウムに遷都まで考えていました。

 

女帝が危篤になると娘エリザヴェータに皇位を望む女帝を見捨て、

先妻腹のピョートルの孫と自分の娘マリアを婚約させてピョートル2世として即位させます。

 

1725年後ろ盾の女帝の死後、古い貴族が一致団結し横領罪で起訴、メンシコフ一家の財産を没収し、娘マリアとの婚約も解消させシベリアに幽閉、その地で病没しました。

 

 

プリンセス・マリア・アレクサンドロヴナ

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ロシアでは婚約はほとんど結婚しているのと同じで宮廷では妃として扱われていました。

皇族のみに許されり白貂の毛皮をまといピョートル2世のメダリオンをつけています。

 

シベリアでのメンシコフ一家

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ロシアでは臣下の邸宅も宮殿とよびます。メンシコフ邸が特別ではありません。

 

ですが宮殿の名にふさわしい広大で豪華なメンシコフ宮殿

巨大すぎるびっくり

右がネヴァ河沿いの主棟で専用の左は使用人が住んだり宮殿の事務所のあるサービス棟

1階を貸し店舗やオフィースにして2階がメインフロアでした。

内装は1部屋1部屋趣向を変えています。

 

ペテルブルクでもっとも古い建物の一つで1710年着工27年に完成しました。

イタリア人フランチェスコ・フォンタナとドイツ人ゴットフリード・シェデル設計で石造り。

 

前期バロック様式でピョートル・バロックと呼ばれています。

ピョートルの好んだオランダの民家のような内装の部屋もあります。

この時メンシコフはサンクトペテルブルグの初代総督でした。

 

メンシコフ没落時に国庫のものとなり1731年陸軍幼年学校となり、

革命時は集会所となり第一回全ロシア・ソビエト大会が開催されました。

1924年エルミタージュの分館となり1966年修復が始まりました。

 

 

メンシコフ宮殿と比べると貧相なピョートル大帝の冬宮びっくり

(現在はありません)

 

ピョートル大帝は外国の大使たちをもてなしたりイベントを行う際メンシコフ宮殿を借りました。

メンシコフの私邸とは知らない外国の大使たちは「大使の宮殿」と呼びました。

 

 1712年ここの大広間でピョートル大帝とエカテリーナ・アレクセーヴェナ(マルタ)の結婚式が行われました。 

1707年に2人は秘密結婚していましたがこれは公の結婚で正式な結婚後に生まれたエカテリーナの子は皇位継承権を持ちました。

 

 

読んでくださりありがとうございました爆笑

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