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4/5 13:30 出発の予定が

13:50 ヴォー・ル・ビコント出発してフォンテーヌブロー宮殿へ向かいます。


ヴォー城は思っていたより見ごたえのあるお城でした。

切符売り場に大勢人は並んでいましたが、庭園でのピクニック目的の家族が多くて、室内はストレスのない程度に見れました。


14:20 フォンテーヌブロー城周囲をマラソン大会のために封鎖しており、かなり手前で降ろされます。

ガイドさんは
「お城のパーキングを17時に出発」 
とだけ言います。

「どこにパーキングがあるの?」と聞くと

「I don't know」

どこにあるかもわからない駐車場で待ち合わせってありですか?
非常に不安になり降りた場所とバスの写真を撮りました。


そこから歩いて20分。

14:40
「フォンテーヌブロー宮殿」

中国人も欧米人もフランス人も大勢いて人だらけです。

今日は第一日曜日で観覧無料の日だったのです。

本来3時間あったのでガイド付き見学コース「プチ・アパルトマン」も見られるかなと思いましたが、
そんなものはやってもいません。

オーディオガイドもすべて貸し出し中ですべての言語のがありません。   

 

城正面の馬蹄形の階段はナポレオンがエルバ島へ流される前に親衛隊と別れをつげたので有名です。
(どこかで絵画で見た気がします)


フォンテーヌブローはユネスコ世界遺産で、フランス最大の城です。

11世紀から狩猟場だったフォンテーヌの森に王家の館がありました。
その時代の塔だった部分が残っています。

1528年からフランソワ1世がイタリアから建築家を雇い、本格的なルネサンス様式の大宮殿のプランを作りました。

フランソワ1世はイタリア遠征をおこない、すすんだイタリアの建築や芸術を目にしました。
そのためレオナルド・ダ・ヴィンチを含むイタリアから多くの芸術家や建築家をフォンテーヌブローに呼び寄せ庇護しました。

フランソワ1世の時代には出来上がらず息子のアンリ2世が時代にイタリアのマニエリスム様式をフランス風に解釈しなおして完成させました。


そののちも、歴代の王たちは改装しつつも増築を続け、様々な様式の建築がつながる特異な城となります。

革命期は家具は持ち去られたものの、建物の破壊は免れ士官学校として使用されました。


ナポレオン1世は「王城の中の王城」と呼び、ルイ15世の増築したグロ・パピヨン翼棟に自分の格式ばったエンパイアスタイルの装飾をほどこし、好んで滞在しました。

ロシアで敗戦して逃げ込んだのも、また退位宣言に署名したのも、流刑の前夜過ごしたのもこの城です。


王政復古時、ナポレオン3世時代ともに手が加えられ現在の姿になっています。


ルーヴルやヴェルサイユではあまり公にならない公式愛妾(王妃に謁見して許される公式の場にでることのできるただ一人の愛妾)の部屋が堂々と残っているのも特徴です。

フランソワ1世の愛妾エタンプ公爵夫人、アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ、ルイ14世の愛妾マントノン夫人の名前を冠した部屋や庭があります。



2階
「法皇または王太后の間」
 

ここはアンリ2世時代に整備され、アンリⅡ世妃カトリーヌ・ド・メディシス、ルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュが王の死後滞在したので「王太后のアパルトマン」とよばれています。

ルイ14世が第一王子とその妻のために改装、その後亡命してきたイングランドのジェームズⅡ世、ピョートル1世が滞在しました。

ルイ15世時代は3人の王女、ルイ16世時代はの王弟プロヴァンズ伯とその妃が使用しました。

革命後は士官学校として使用され、ナポレオンは1812年から14年まで戴冠式に反対する法皇ピウス7世を幽閉したため「法皇のアパルトマン」ともよばれています。

ルイ・フィリップ時代は長男オルレアン公爵、ナポレオンⅢ世は従姉妹パド公爵夫人を住まわせました

王や皇帝のアパルトマンに近接しているので、このように代々の王、皇帝の近親者が使用しました。


 

 

オーディオガイドもないし、人が多すぎてパネルもどこにあるかわからないし家具もよく見えないので、何の部屋かよくわかりません。


ルイ14世時代の家具
 

バロック様式の家具
 
 第二化粧室
  
  
 
  
  ルイ15世の王女のための化粧室として整備され、そのままルイフィリップの息子オルレアン公爵ついでパド公爵夫人が執務室として使用しました。
 

第一帝政期の家具
 
 

続き部屋なのに部屋ごとに家具の様式が時代をいったりきたり。


アンヌ・ドートリッシュの寝室
 

 
 
1664年シャルル・エラールが着彩した天井
 
  
1660年ごろアンヌドートリッシュがシャルル・エラールとジャン・コテルを起用し装飾されました。
ノイエ・コイペル原作のゴブラン織りのタペストリー「神々の勝利」が飾られています。

二帝政期以前まで当時の姿のまま使用され続けました。

第二帝政期に応接間になりナポレオンⅢ世が手を加えます。
重厚なオーク材製のルネサンス様式寝台と椅子のものを製作させ置きました。


大広間
 

 
格子天井はアンリⅡ世の部屋にあったもので、惑星像とアポロンの模様が彫られています。

この部屋がアンヌ・ドートリッシュの控えの間に決められた時、アンヌの花文字もつけ加えてこの部屋の天井に移設されました。

初期バロックなのでマニエリスムのアラベスク模様が壁を覆っています。


ルイ15世王女アデライードの広間に、王政復古時代ルイ18世の広間になりました。

第二次帝政期に「神々の勝利」のタペストリーがかけられていましたが、1914年にアンヌの控えの間だった時のあったシャルル・ル・ブランが下絵した「アレクサンドルの物語」に変えられています。

テーブルとファラオ風の脚(マニエリスムのグロテスク)のついたコンソールは1787年に製作されたものです。

旧アンヌ・ドートリッシュ衛兵の間
 

 

アンヌ・ドートリッシュの衛兵の間として整備され、1740年にルイ15世の王女たちの居室となったときに分割されました。

アンヌ時代の装飾は金一色の天井のみが残っています。

「グラン・アパルトマン」

馬蹄形の階段を上がったところにある玄関です。
 

扉以外の彫刻はルイ・フィリップ時代のものです。

 「フランソワ1世の回廊」
 
このお城の象徴的な場所。

フランソワ1世がグラン・アパルトマンから三位一体教会へ通りぬける単なる廊下だったのをイタリア人装飾家ロッソ・フィオレンティーノを雇い美しく装飾させました。

壁の下半分はくるみ材でできた彫刻板張りでベンチがついています。

上部は化粧漆喰で豪華に装飾しフレスコ画を配置しました。
このような装飾はそれ以前にはありません。


三位一体修道会礼拝堂
 

フランソワ1世が着工し、アンリⅡ世の末期に建築は完成します。
そのまま放置され、ルイ13世の時代になってようやく完成させます。

パーテレミ・トランプレ製作の化粧漆喰と彫刻の枠にマルタン・フルミエが人類の贖罪に関係する絵を描きました。

「三位一体」(神、キリスト、聖霊が同一であるとするカソリックの教えの一つ)の絵画を中心に、左にカール大帝に扮したアンリ4世、右に聖王ルイ9世に扮したアンリ4世の彫刻があります。

ルイ15世とマリーレクザンスカの結婚式、ナポレオンⅢ世が洗礼式、ルイ・フィリップの長男オルレアン公の結婚式が行われました。

2階は王族、皇族の席です。


衛兵の間
 
 
 
 
 
  
  シャルル9世の時代に王室のアパルトマン手前に設置された部屋で、衛兵が常駐していました。どの王宮にもあります。

武器模様のフリーズとフランス式天井は1570年代のものでそれ以外の彫刻や寄せ木貼りの床はルイ・フィリップ時代のものです。

暖炉の上はアンリ4世の胸像。


フリーズと梁天井の組み合わせがヴォー・ル・ヴィコントの大広間と同じですね。
こっちが古いのでル・ブランはここから発想をえたのでしょうか?


舞踏会の間
 
 
   
 
フランソワ1世はロッジア(イタリア発祥の建築意匠で廊下の片側が外に面している)を計画していましたが、アンリ2世はアーチに窓枠を入れ、丸天井を格子天井に変更し完成させます。

おもに舞踏会に使用されいました。


   

西側の階段席
演奏家用。
  
プリマティッチオ製作のブロンズ製の差チュロス像が二体がはめ込まれた暖炉があります。
(古代ローマ彫刻をもとに製作。現在あるものは複製)

板張り、天井、暖炉にはアンリⅡ世のイニシャル(H)とエンブレム(三日月)がいたるところに装飾されています。
アンリⅡ世が選んだエンブレムの三日月は愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエの名が月と狩猟の女神ダイアナと同じ名前だからだと言われています。

壁、柱、アーチの内側にはプリマティッチオ原案のギリシャ神話の様々な場面がフレスコ画で描かれています。


アンリ2世の装飾をできるだけ変えず、ルイ・フィリップが修復した天井。


サン・サチュルナン礼拝堂

フランソワ1世時代に建物のみができあがり、アンリ4世が装飾をほどこしました。
 天井の格子一つ一つに装飾がほどこされています。

HとMの紋章がたくさんちりばめられていますが、
Hはアンリ4世だとわかりますが、Mは最初の王妃マルグリット・ド・フランスのものか、二番目の王妃マリードメディシスのどちらわかりません。

 

天井の上に窓付きの円塔がついています。  


王の階段
 
 
もとはフランソワ1世の愛妾エタンプ公爵夫人の居室でしたが、
1748年にルイ15世がが階段に変えました。

プリマティッチオが装飾した1540年ごろのルネサンス装飾がほぼそのまま残っています。

壁の上部は「アレキサンダー愛の物語」のフレスコ画。

東部の絵画と丸天井の絵画は18世紀ルイ・フィリップ時代のものです。


エタンプ公爵夫人の寝室の化粧漆喰
  
 
 
長くなったので続きが次回にします。

ここまで読んでくださりありがとうございました。