良いとはいえない容姿
良いとはいえない環境
良いとはいえないすべての事柄
それらを他の誰かが口にすれば、途端に非難と批判の嵐を受ける 今の世
互いに相手への思いやりを持ったコミュニケーションが求められる社会。
それは昔から必要で大切であったはず。
今ようやくそれが、社会全体に広まり、良い形へと活発に動き始めている。
ただそれと同時に、浅い思考と低いコミュニケーションスキルによって、本来の目的を見失った動きまでも生んでしまっているように感じる。
本当は思いやりに満ちた変化球ボールなのに、それが受け手を傷付けるものとして、過剰なまでに排除されてしまっている気がする。
その思いやりボールは
直球だったり
変化球だったりもするのに
思いやりながらも変化球しか投げられない不器用な人でも、受け止める方がしっかりとそれをキャッチできていたなら、それはナイスボールで
思いやる気持ちではなく、ただ相手をバカにして放たれた投球は、ど真ん中のストレートでも変化球でも、受け止める側を傷付ける
そして、観客もまた、それを見極める目があったらいい
ど真ん中の思いやり投球は誰が見ても分かりやすい。
けれどそればかりでは、試合は当然つまらない。
きっと誰も傷付くことはなくなるけれど
とんでもなく詰まった変化球の暴投でも、そこに思いやりが込められているかをちゃんと感じ取れる目、ちゃんとボールに込められる腕、
高度な技かもしれないけれど、それはきっと人として大切な技だ
ただ受け手をバカにして投げられた球と
思いやりを込めて投げられた球とでは
全く違うということを、
ちゃんと見極められる人は、きっと会話の中で様々なことを感じ取り、たくさんの人とコミュニケーションを重ねてきた人だろう。
そんな高度で、面倒な技を身に付けるマニュアルや教科書などはどこにもなくて、だから人は楽なコミュニケーションの取り方をいつの間にかとっていってしまう。
誰かの容姿をからかって簡単に笑いをとる
周りには笑いが起こるけれど、言われた方は傷付く
苛立つ心をはらすため
罵声を浴びせたり
怒鳴ったり
体罰を加えたりして
簡単に相手を思い通りにさせる
自分が向上していくのではなく、相手を貶めて自分が高まった錯覚の中で満足する
そんな低いコミュニケーションに巻き込まれ、多くの人が傷付いてきた。
そんな過去があるから
今、過剰なまでに人を傷付けないコミュニケーションばかりを求める世の中となったのかもしれない。
分かりにくいけれど、優しさ溢れる思いやり変化球を投げられる人も、それを見極められる人も、だんだんと減ってしまうのだろうか
浅い思考と表面しか見えていない人々の安易で浅はかな過剰なまでの批判によって、淘汰されてしまうのだろうか
今も昔も大切なこと。
直球でも変化球でも
そこに優しい思いやりが込められた投球
(コミュニケーション)
そんな、色んな思いやり投球を投げられる腕と、見極められる心が欲しいなと 思った。