あの日、空気が張り詰めていた。
家庭訪問。
それは中学生にとって、裁判と同じくらいのプレッシャーを伴うイベントだ。
だが、俺にとってはもう少し違った。
なぜなら――来るのが渡辺先生だったからだ。
そう、あの男。
「宿題を忘れました」が死刑宣告になる男。
竹刀で突きを教えるのに、防具は“気合い”しか貸してくれない男。
その渡辺先生が、我が家に来るというのだ。
しかも、家には親父がいた。
ブルース・リー信者。
リビングの壁には「考えるな、感じろ」の筆文字。
趣味は筋トレとヌンチャク。
晩酌の時は「ウイスキーは気合で薄める」と言いながら原液で飲む人。
つまり――武の方向性が完全に一致している。
最悪の組み合わせだ。
俺は母に必死で言った。
「今日、母さんいないほうがいい!避難して!」
母は首をかしげながら出かけていった。
残されたのは、地獄のタッグ戦の舞台だけだった。
玄関のチャイムが鳴る。
「ピンポーン」
心臓がバクバクする。
渡辺先生が立っていた。剣道二段の目つきで。
「おう、◯◯。宿題は出したか?」
最初の一言から、もう逃げ場がなかった。
そこへ、親父が登場。
タンクトップ姿でプロテインシェイカーを持って。
「おう先生!息子がお世話になってます!」
「こちらこそ!いやぁ、元気そうなお父さんだ!」
二人の握手――バキィッ!!
普通の人は握手で音が鳴らない。
でもこの二人は違う。握手で骨が鳴る。
そこから会話がどんどんヒートアップ。
「先生、剣道やってるんですって?」
「ええ、二段です」
「私はブルース・リーの直伝ビデオで鍛えました」
「おお、いい構えだ!ちょっと構えてみましょうか」
……いや、構えるな。
家庭訪問だぞ。教育相談だぞ。
しかし、二人はもう止まらない。
竹刀を持った渡辺先生と、ヌンチャクを持った親父。
構図だけで映画一本撮れる。
「先生、突きってどうやるんです?」
「こうですよ、喉を狙うッ!」
「ほぉ、それならこっちは“ドラゴン突き”だ!」
「どりゃぁああああ!!!」
リビングのちゃぶ台が宙を舞った。
うどんが空中でスローモーション。
俺は思わず叫んだ。
「やめてくれぇぇぇ!!!」
だが渡辺先生の顔は真剣そのもの。
「これは教育だ!」
親父も負けじと叫ぶ。
「これは鍛錬だ!」
教育と鍛錬の狭間でちゃぶ台が犠牲になった。
10分後。
リビングには汗だくの二人。
床には倒れたちゃぶ台。
テレビではなぜかブルース・リーの映画が流れ始めていた。
渡辺先生が呟く。
「お父さん、あなた……強いですね」
親父も息を整えながら答える。
「先生こそ……ビンタのフォームが美しい」
その瞬間、二人の間に奇妙な友情が生まれた。
ビンタとヌンチャク――本来交わるはずのない二つの流派が、いま融合したのだ。
俺がそっと台所から顔を出すと、二人は互いの技を教え合っていた。
「この竹刀の振り下ろしな、腰からだ」
「なるほど!じゃあヌンチャクも同じく腰だな!」
「ほら、構えながら“押忍”って言ってみ?」
「いやブルース・リーは“ホワァッ!”です」
「押忍だ!」
「ホワァッだ!」
……やかましい。
最終的に、二人は意気投合してジョッキを掲げた。
「乾杯ッ!」
「ビンタとヌンチャクに、栄光あれ!」
俺はその横で、ひっそりと泣いた。
ちゃぶ台が再起不能になったからだ。
翌日、学校で渡辺先生が言った。
「お前んちの親父、すげぇな。今度剣道部の特別講師に呼びたい」
「やめてください!!」
だが先生は本気だった。
後日、本当に親父が剣道部に呼ばれた。
「心の竹刀を振れ!」とか「ヌンチャクも武士道だ!」とか、
支離滅裂な講義を展開して、部員全員が腹筋崩壊。
それからしばらくして、親父は50で亡くなった。
まるで燃え尽きるように、静かに。
葬儀の日、渡辺先生が来てくれた。
いつもの真っすぐな目で言った。
「お父さんは、本物の“戦士”でした」
先生はそっと、祭壇の前で竹刀を立て、敬礼した。
俺は涙をこらえきれず、思わず言った。
「先生、親父、天国でまたスパーしてますよ」
先生は小さく笑った。
「だろうな。きっとビンタとヌンチャクで雲割ってるわ」
帰り際、先生が俺の肩をポンと叩いた。
「お前、いい顔になったな」
ビンタじゃなくて、優しいタッチ。
それが、あの人の最高の“卒業証書”だった。
俺はいまでも思う。
もしあの日、渡辺先生と親父が出会わなかったら――
俺はこんなに笑って思い出せる青春を、持てなかっただろう。
ありがとう、渡辺先生。
ありがとう、親父。
あんたらの拳とヌンチャクは、今も俺の中で鳴っている。
たまに耳元で聞こえるんだ。
「避けるな!」
「感じろ!」
――そして、今日もちゃぶ台は静かに震えている。