親父という存在は、人生の中で最も厄介で、最も面白く、最も破壊的な生き物である。
うちの親父は特にその中でも「自称ブルース・リーの再来」を名乗るタイプで、夜な夜な下着姿で鏡の前に立ち、「Don't think! Feel!!」とか言いながら自分の腹に正拳突きを叩き込んでいた。
──そしてある日、その男が“健康”という未知の領域に手を出してしまったのである。


事の発端は、近所のホームセンターで見た一枚のポスターだった。
そこには筋骨隆々の外国人モデルが、笑顔で腹筋ローラーを転がしている写真。
キャッチコピーは「1日5分でシックスパック!」。
もうこの時点で親父の脳内は完全にハリウッド。
家に帰るなり、開口一番「母さん、俺、今日から変わるわ」と宣言。

母:「また始まったよ……」
俺:「何を?」
親父:「肉体改造だ。時代は健康だ。今や男は筋肉だ」

いや、その時点で親父は50近く。
腹は大黒天。背中は富士山。足はむくみ。
どこからどう見ても「筋肉」の文字は一つも見当たらない。

しかし本人は鏡の前でポーズを取りながら「この下には眠ってるんだよ、ドラゴンが」と真顔で言う。
おそらくそのドラゴン、脂肪で冬眠中だ。


まず手に入れたのが腹筋ローラー。
これが親父の人生を狂わせた第一号機である。

最初の夜、親父はジャージ姿で登場した。
なぜか鉢巻を巻いている。
「いざ、ブルース・リーの領域へ!」と叫びながら、腹筋ローラーを転がす。

──ガッ!
次の瞬間、親父の身体が床に沈んだ。
まるでカツオ節のようにぺしゃんこ。

母:「なにやってんの!」
親父:「うっ……これ……効くぞ……」
俺:「効いてるのは腹じゃなくて顔だと思う」

親父は立ち上がれず、そのまま亀のようにゴロゴロ転がっていた。
そして10分後、腕をプルプルさせながら言った。
「……明日、筋肉痛が来たら成功だ」

翌日。
親父の姿は布団の中にあった。
全身に湿布。顔は絶望。
「筋肉痛……じゃなくて全身痛だ……」
家族全員、朝から笑い転げた。


だが親父は諦めなかった。
「倒れても立ち上がる、それがドラゴンだ」と言いながら、次のターゲットに手を出した。
それが──ぶら下がり健康器。

1990年代、健康器具ブームの代表格である。
当時、誰の家にも一台あった“使われないインテリア”。
だがうちの親父は違った。
「俺は本気だ!」と言いながら、家の真ん中に設置した。

母:「リビングのど真ん中に置かないでよ!」
親父:「風水的にもここがパワースポットなんだ」

何の風水だよ。

そして親父は、夜な夜なぶら下がる儀式を開始した。
「これは背骨を伸ばすのだ」と言いながら、毎晩10分間ぶら下がる。
だが問題は、親父が体重90kgオーバーだったことだ。

結果──2週間後、金属疲労でぶら下がり健康器が折れた。
ガシャーン!という音とともに、親父が床に沈む。

母:「あんた何してんのよ!」
親父:「……重力が……強すぎる……」
俺:「いや、体重が強すぎるんだよ」

親父は痛みにうめきながらも言った。
「だが、俺の背骨は……少し伸びた気がする」
その日から、親父のあだ名は「吊り竜」になった。


次に手を出したのが「健康ステッパー」。
テレビ通販で女優が笑顔で踏み踏みしているのを見て、即購入。

「これなら俺もできる!」と鼻息荒く踏み始める。
が、3分後。
「これ……地味にキツイな……」
汗が滝のように流れる。
10分後、ステッパーから降りられず、膝がガクガク。

翌朝、親父は動けなかった。
「下半身が……戦場だ……」
母:「何分やったの?」
親父:「……2分半」

2分半で戦場。
どんな弱腰国家だよ。


そんなある日、親父が新たに持ってきたのが「電気刺激マシン」。
筋肉に電流を流して鍛えるというやつだ。
「これでブルース・リーも鍛えたらしい」と真顔で言う。
絶対嘘だ。

親父は腹にパッドを貼り、「いざ、通電!」と叫んだ。
──ピッ。
「うわっ!!!」
その瞬間、親父の身体が跳ね上がった。
腹筋が勝手にビクビク動く。

母:「やめなさいって!」
親父:「これは……効く!効いてるぞ!ドラゴンが……目を覚ます!」

そのまま親父は笑いながら震えていた。
完全にホラーだ。

しかし親父は続けた。
「痛みこそ進化だ」
電流マシンを1日3回使用。
最終的に肌がかぶれて病院送り。
医者に「過剰刺激です」と言われ、電流ドラゴンは沈黙した。


それでも親父は止まらない。
「健康とは、立ち止まらないことだ」と言いながら、今度は「足つぼマット」を購入。
「これは血流に効く」と言って、裸足で歩き始めた。

──5秒後。
「ぐあああああっっっ!!!」

叫び声が家中に響いた。
母:「何してんの!」
親父:「拷問器具だこれ!!!」

でもその後、「慣れれば痛くない」と言いながら続けた。
10分後、足の裏が真っ赤に腫れ上がる。
「血流は良くなった。痛みで目が覚めた」
その日の晩、足裏に湿布を貼りながら寝た。


親父の“健康革命”は続いた。
振動マシン、バランスボール、ストレッチポール、果てはスライドディスクまで。
家の中が完全にスポーツジム。
リビングを歩くたびに何かに足をぶつける。

母:「もうやめて!場所がない!」
親父:「健康にはスペースが必要なんだ!」

最終的に冷蔵庫の横に健康器具を積み上げ、まるで城壁。
「これは俺のトレーニングゾーンだ」と言って立ち入るのを禁止した。

俺が間違ってその中に踏み込んだとき、親父が言った。
「そこは聖域だ。精神を鍛えたいなら正座してから入れ」
いや、健康器具の聖域ってなんだよ。


ある日、親父が唐突に言った。
「健康とは、心の持ちようなんだ」
それを聞いた母が「ようやく気づいたのね」と笑った。

しかし次の瞬間、親父は言った。
「だから俺、呼吸法を始める」
出た、ブルース・リー信者特有のスピリチュアル展開。

「丹田を意識して呼吸するんだ」と言って、夜のリビングで座禅。
だが10分後には寝息が聞こえてきた。
結局、睡眠健康法に落ち着いた。


そして数年後。
健康器具はすべて物置に追放された。
ぶら下がり健康器は洗濯物掛け、ステッパーは猫のベッド、振動マシンは母の花台。
親父の夢のジムは、今や“生活の残骸”。

それでも、親父は笑っていた。
「まぁ、どれも無駄じゃなかったよ」
「何が?」と聞くと、
「家族が笑った。それで充分だ」

その夜、親父は久々にビールを開けた。
「健康ってのはな、楽しく生きることだ。ブルース・リーもきっとそう言う」

たぶんブルース・リーは言ってない。
でも、親父が言うと妙に説得力があった。

今でも思う。
あの人が家に残した健康器具の山は、形を変えた“思い出”なんだ。
家族で笑って、転がって、泣きながら笑った時間。
きっとそれが、いちばん健康的な時間だったのだ。