渡辺先生、朝礼でマイクを破壊す

(前編)

――1990年代中期。
まだスマホも、SNSも、YouTubeもなかったあの頃。
「朝礼」とは、ただの儀式ではなく、地獄の入口だった。

その日、空は快晴。
だが、僕らの心は曇天だった。
理由は簡単。

「今日の朝礼、体育の渡辺先生が“話す側”らしい」

この情報が校内に流れた瞬間、全生徒の血圧が上がった。
彼はただの体育教師ではない。
ビンタの音で天気が変わる男――それが渡辺先生だ。

前の週、遅刻した男子をビンタしただけで、校庭のカラスが全員逃げた。
生徒たちは言う。
「地震速報より渡辺先生の声の方が早い」

――そんな人がマイクを持つ。
もう嫌な予感しかしない。

 

朝7時45分。
校庭に全校生徒が整列。
先生たちがズラリと並び、ステージ中央に“マイクスタンド”が立っていた。

その姿を見て、僕は悟った。
――今日、何かが壊れる。

司会の教頭がマイクを手に取り、穏やかに言う。
「それでは、本日の特別講話。体育科、渡辺先生です」

ざわつく生徒たち。
誰もが祈っていた。
(どうか、無事に終わってくれ…)

だが次の瞬間。

「押忍ッ!!!」

体育館全体がビリビリと震えた。
いや、外だ。校庭だ。
屋外で地鳴りを起こす声量。
すでに災害レベルである。

教頭の頭髪が風圧でなびく。
前列の女子が「え?スピーカーもう入ってる?」とつぶやいた。
違う。素の声だ。

渡辺先生が壇上に立つ。
目はギラギラ、首筋の血管はロープのよう。
ジャージの胸には“魂”と油性ペンで書かれていた。

先生はマイクの前に立ち、にらむようにそれを見つめた。

「……お前が、マイクか」

その言葉にマイクが震えた気がした。

 

「ワシはな、昔からこう思っとる」
渡辺先生が語り始める。

「人間の声は魂や。魂を電気に通すなど、許されんッ!!」

僕らは凍った。
つまり――この人、マイクが嫌いらしい。

教頭が慌ててフォローする。
「せ、先生、マイクは便利な…」

「黙っとれェ!!」

怒号一発。
教頭のメガネが曇る。
マイクの横で風圧が渦を巻く。

渡辺先生はさらにマイクに近づき、まるで決闘相手を見るように睨みつけた。
「貴様……電気の力で声を増幅するとは、軟弱者め!」

もはやSF映画である。

マイクは当然、何も答えない。
だが、風が吹いた。
スピーカーが「ボォォォォォ」と唸った。

渡辺先生の眉がピクリと動く。

「……敵の奇襲か」

次の瞬間。

「パァァァァァン!!!」

右ストレート。
マイク、粉砕。

スタンドが倒れ、スピーカーから「ギュィィィィィィィィィィィン!!」と悲鳴のようなハウリング。

その音を聞いて、渡辺先生はさらに興奮した。

「鳴いとるッ!!こいつ、生きとるぞ!!」

殴る。
蹴る。
なぜか一本背負いまで入った。

マイクはすでに存在しないのに、渡辺先生は空気を投げ続けていた。

教頭が絶叫する。
「先生!やめてください!それ公費で買ったやつです!!」

だが渡辺先生は叫ぶ。
「公費も魂も関係あるかぁぁぁぁ!!!」

マイクスタンドの残骸を掲げて、
「勝ったぞぉぉぉぉ!!!」

校庭、沈黙。
風の音だけが響く。

そして一拍おいて――
「先生、マイク死にました!」と放送委員の女子が叫んだ。

渡辺先生、肩で息をしながら言った。
「よし……次はスピーカーじゃ」

全校生徒:「やめてぇぇぇぇ!!!」

 

教頭と数人の先生が必死に止めに入った。
だが渡辺先生、興奮状態。
「このスピーカーも敵の親玉や!今こそ討つ!」

まさに戦国時代。

その時だった。
PA担当の音楽教師・中村先生が、マイクのケーブルを引き抜いた。
「先生!もう電気通ってません!」

ピタリ、と動きが止まる渡辺先生。

「……そうか。つまり、もう喋っても大丈夫なんやな?」

「はい、もう電気は――」

「押忍!!」

渡辺先生、素の声で再び全校に響き渡る。
スピーカーいらず。
もはや校舎全体が共鳴する。

理科室のビーカーが揺れた。
窓が鳴った。
そして、職員室のテレビがなぜか砂嵐になった。

渡辺先生は、勝ち誇ったように言った。
「見たか、お前ら!人間の声に勝る増幅器はない!!!」

誰も何も言えなかった。
生徒たちは、完全に呆然。

そして教頭が、涙目でつぶやいた。
「……予算、どうしよう」