「リレー=裏切りの血の契約」
――バトンは信頼より重かった。
秋。校庭に響く歓声。全校生徒が燃える体育祭最大のイベント、クラス対抗リレー。
普通の学校では、これは友情と団結の象徴である。
しかし、我が校においてそれは違った。
渡辺先生の前では――
「バトンを落とした瞬間、人間関係も落ちる」
そう明言されていたのだ。
「落とすな」=「裏切るな」
渡辺先生にとって、リレーとは団結力の試練などではない。
それはむしろ、**「いかに責任から逃げないか」**を試される、恐怖のイベントだった。
「お前ら、これ“走るだけ”と思ってるだろ?違う。これは命の受け渡しだッ!!!」
そう叫びながら、バトンではなく金属製の筒を投げ渡されたこともある。重さ、推定1kg。
「これは“信頼の証”だ」と言っていたが、普通に手がしびれる。手を滑らせれば…その瞬間、怒号が飛ぶ。
「落としたぁ!? お前、親にもそんな扱いしてんのかッッ!!」
…知るかそんなこと。
フライング=性格の欠陥扱い
リレーで最もやってはいけないこと――それはフライング。
普通の学校なら「もう一回ね」で済む。
しかし、渡辺先生の前ではこうなる。
「フライング?…つまり、我慢できない性格ってことか?今後、結婚生活もうまくいかんなこれは!!」
いや、先生、中学生に将来の離婚リスクまで言及するのは早すぎます。
その日は、フライングが一度出たため、全員100mを2本余計に走らされた。
「心を鍛え直せ」ということで、無言ランニング5kmが追加メニュー。もはやリレーではなく修行である。
私の番――あの“事件”が起きた
運命の瞬間は突然訪れた。
私はリレー第3走者。次はクラスのエース・井上。みんなの期待が私の背中にのしかかる。
そして――私は、つまずいた。
見事なまでの顔面着地。バトンが空中に舞った。スローモーションで見えた。
「ヤバい」と思った瞬間、渡辺先生の声がグラウンド全体に響いた。
「落ちたッ!?お前、それ…“信頼の落下”だぞォ!!」
井上の手は空を切り、私の心も砕けた。
ゴール後の“地獄の反省会”
レースは終わった。負けた。
それよりも怖かったのは――渡辺先生の反省会。
整列させられ、ひとりずつ“問題点”を指摘される。
「お前はスピードが足りない。人としての。」
「君はバトンパスのときに“目”が死んでいた」
「〇〇、最後抜かれたのは“人生設計の甘さ”」
全員、精神ダメージがスタミナの5倍。
応援席では「泣くな、今は走る時間だ」と励まされる始末。
チームワークの末路=個人の責任
リレーとは、本来チームワークの象徴だ。
だが、渡辺先生はこう言い切った。
「チームワークってのはな、個人が全力出した上で成り立つもんだ。ひとり手を抜いたら、全員死ぬ」
いや、そこまで死地に追い込まれる必要あります?
それは信頼ではなく、“恐怖の鎖”だった
今思えば、あの日のバトン。
あれは友情や団結の象徴などではなかった。
「落としたら終わり」という恐怖で繋がれた鎖だった。
確かに、私はあのリレー以来、
・書類を落とさない
・責任を引き継ぐとき超丁寧
・会話でのタイミング命
という社会人スキルを身につけた。
だが代わりに、誰かが棒状のものを持って走ると震えるようになった。
最後に:先生、それバトンじゃなくて呪具でした
十数年たった今、私はようやく気づいた。
渡辺先生が手渡していたのは、**バトンではなく“呪具”**だったと。
あれは信頼の証ではない。恐怖と怒号と反省文の結晶だったのだ。
でも、一つだけ言えることがある。
「人生、つまずくことはある。でも、バトンを投げ出すな」
…って、あの時つまずいた私に言ってやりたい。
できれば、もっと柔らかい言葉で。