良心の呵責 | スパチーの独り言

スパチーの独り言

原則、記事は前日の内容に関連してます
気になったら前へさかのぼってご覧ください
独り言で恐縮です
神社仏閣を「好き」になって欲しい
でも依存と鵜呑みはダメ
※お願い 嫌がらせ防止のためお読みになる前に
まず【記事タイトルをクリック】して頂けると助かります

令和 4年 7月 17日 日曜日、豪雨のち快晴。

昨日はお休みさせていだだきオフ会で楽しい日を過ごしました。なんと嬉しいことに暑中見舞に日本酒一升瓶×2、焼酎一升瓶×2を頂戴しました。ありがとうございます。来週のオフ会、いやお盆まで床の間に祀っておきましょう。一升瓶を紐で縛ってある奉納酒だし、そろそろ盆提灯を出さなきゃね。年取るとクリスマスよりお盆が沁みる。


さて。

前回は必然を書きましたが。必然とは法則であり因果でもある。法則や因果とは言い方を変えれば科学でもある。しかし科学とは価値、現実世界のものであり証拠を持って我々は科学を積み上げて来たもの。偶然もまた数学、確率であり起こり得る可能性だ。宗教の理想やヒトの想いは、こうした科学や数学、あらゆる価値観、事実や現実を超えた世界_内に秘めた妄想の先かもしれない。

天国あるいは極楽浄土、輪廻転生。これらはヒトが妄想し得る理想、帰着的欲望であり、苦しい生活や人生の意義、生きる意味、日々の悩みを収束させる「当然の存在」「せめて来世は」という迷いのない思い、決意のような拠り所だろう。冷静に考えれば絶対に在り得ない宇宙を形成する法則を無視した空想であり、あらゆる必然を否定する思想だ。ヒトが求めるのは必然でも偶然でもない奇跡、その奇跡を神仏に宿らせ太古から願い祈り続けてきた。証拠は無用_ただ信じること、信じさせること。その対象や手段、守るべき掟と善悪が集団毎に異なっているだけだ。

ヒトの行動や善悪、生死や賞罰をコントロールする存在など在りはしないし、あってはならない、善悪の基準を決める存在などあるわけが無い。集団として共通認識を持つこと、正しい、善行だと思う行為はヒトの思い上がりでしかない。自分だけの過去の経験に基づく憶測、教えられた法則だけで正しい、善行だと価値基準を決めているに過ぎない。生きるとは他の生を殺して自分の糧にすること、その行為に後ろめたさを持ったがために、複雑な思考の迷路から抜け出す「善と悪や正と不正」という価値観が生まれる。刈り取る前に、殺める前に、食べる前に祈ればいい_そうした行為に「意味」を持ちだすこと、本来は意味も価値も無く単に刷り込まれた「良心の呵責」、自分に対し自分の心が責めや咎めを感じ_苦しみ悩むむこと_というだけだ。

いのる

結局のところヒトも生物の世界にあるわけで、所詮弱肉強食の法則を超えることは出来ない。しかもこうした他人の「心」を神仏に依って操ることで腕力以上の支配主従とカネの流れを育んでしまった。間違っている、自分を支配してる者は正しくない、気付こうが気付くまいが、そう思ったところで決して「法則」は覆ることはなく、奇跡を神仏という理想の象徴に求めるしかなかった。そしてまた支配側も排他を強化し奴隷と地域を拡大していった。
そう考えると大乗仏教や密教、キリスト教は究極的な理想ではなく、出口の無い逃げ場であり単に不安を和らげる智慧だろう。かといって他の宗教が究極なわけでも先があるわけでもない。しかし釈迦は別次元ではないだろうか。ニンマーがその安心感を与えたとするならば、初代ヤハウェことエンキ、3代目マルドゥクは何だったのか。そう、善悪や正と不正を神が与えたのだから考えるな、である。釈迦は_ニンギシュジッダだろうか。

釈迦は家族や価値観といった「自分以外」を捨て去る愛や他人を無視する思想だったこと、個人と宇宙の法則にのみ絞り込んだ、あくまでも「個人の精神世界」であり、自分の外ではなく内にのみ思考を追った。これは究極かもしれない。他人を無視した世界「そこに自分以外の存在が無ければ」善と悪や正と不正、ひいては良心の呵責も他人に操られることさえも無く、解放であり自由、宇宙との一体化へ。完全に引き籠った世界である。悟るとは愛と執着を手放し独りになることでもある。

世界でもっとも事象や物質に「意味を与える」こと、こじ付け、言い訳をし、自分だけでなく周囲をも強引に納得させようと思考を傾けてきたのが日本でもある。なので間違いであっても、証拠が無くても、因縁や縁起、必然を持ち出すことが多い_いやすべてと言ってさえいい。それが神道でもある。原則として人殺しが神として崇められ、また死を畏れケガレや病を忌み嫌い、塚を立て祠を祀り、差別する文化ではないか。現在はそんなことを言い出そうものなら現代の価値観から弾かれるのは必至だが、ほんの70年前まで_それが日本の姿であり世界が恐れた日本人なのではないか。そのせいで裏表、何を考えているか分からない、表情が乏しい、没個性、我慢や耐え忍ぶ精神こそが美徳に「させられて来た」と思いませんか?



ニコニコ またねー


p.s.

77年前、皇居以外焼野原の日本。天皇も神ではなく日本人は世に神も仏も無いと悟った。
参拝は激減し新興宗教が幅を利かせ出した。そしてそんな日本を知らない世代が増えた。
古の所以も知らず書き換えられた縁起に騙されたまま_現在のブームへ。
見える、感じるのはあなたが創り出した妄想、あなたしか知り得ない世界。
否定はしない、それがあなたにとって現実だと知ってるし、実体化もするだろうことも。